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『秀吉の枷』(加藤 廣著)

 書店で標記の文庫本を見つけ、読み始めた。加藤氏の本能寺三部作の一つ。信長は、本能寺から南蛮寺へ通ずるトンネルを掘るよう、秀吉に密命する。その後、光秀の謀反を察知した秀吉は、信長が南蛮寺に逃れられないように、人を派遣してそのトンネルを塞がせる。なかなか面白い筋書きである。本能寺と南蛮寺の位置関係は、ここに(Google Maps)記載した。

 中巻を読んでいると、備後赤坂が登場した。私の郷里の広島県福山市にある。備後赤坂駅の北東2kmの所に田辺寺(でんぺんじ)がある。1587年に秀吉が九州遠征に出かけた時、この寺で元将軍の足利義昭に会っている。ここにも記載されている。これは史実のようだ。『秀吉の枷(加藤 廣著)』によると、義昭が秀吉の手相を見たかったらしい。中学、高校時代の6年間、福山駅と尾道駅の間を毎日電車で通学した。しかし、備後赤坂駅で降りた事は、1度もなかった。

[追記:2009年9月26日]
 『秀吉の枷』(下)は、更に面白かった。大河ドラマ等で、秀吉が、関白秀次とその関係者を大量に死に追いやる場面がある。秀次の狂った様な行動が原因であるが、突然どうしてそのような行動に至ったのか、秀次本人だけでなく、正室、側室、彼らの子供なども死罪にするという秀吉の決断は何が齎したのかが、大いに疑問だった。この疑問に対する1つの答えを、この作品で知る事ができた。ブックカバーに記されている《淀君の陰謀》である。
by utashima | 2009-09-21 11:34 | 読書 | Trackback | Comments(2)

大学時代に観た映画---『ひまわり』と『アンドロメダ病原体』

 50代になってから映画を良く観るようになったが、以前はあまり観なかった。九州大学の学生だった4年間に観た映画で記憶に残っているのは、『ひまわり』と『アンドロメダ病原体』だけ。福岡市内の天神か中州の映画館で観た。

 『ひまわり』を再び観たいと思い、楽天レンタル DVD で検索し、予約リストに入れた。2ヶ月ほど待って借りる事ができた。最初に観たのは1970年だから、39年振りの観賞である。ソフィア・ローレンが、第二次大戦後も帰らぬ夫を探しにロシアまで行き、ロシアの女性と家庭を持って生きているのを知るところまでは、覚えていた。その後の事と、感動的な最後のミラノ中央駅での別れは、記憶に残っていなかった。ヘンリー・マンシーニの音楽も良かった。後で YouTube で検索し、映画の主要場面の動画(音楽付き)を見つけた。

 もう一つの『アンドロメダ病原体』も再び観たいと思い、楽天レンタルで予約した。この映画の結末も、記憶にない。
by utashima | 2009-09-12 17:47 | 映画・ドラマ | Trackback | Comments(0)

『道長と宮廷社会(日本の歴史06)』(大津透著) 第4章

第4章 王朝の文化

 道長 (966年-1028年) は、1005年に宇治郡木幡(こはた)の地に浄妙寺三昧堂(さんまいどう)を建立した。木幡は基経以来藤原氏の墓地であり、先祖の霊の菩提のためと、その後の一門の人々を極楽へ導くために。木幡の墓は、JR 奈良線の黄檗(おうばく)駅から木幡駅にかけての東側の丘陵にあり、現在は宇治稜として 37 墓が宮内庁に管理されている。
 著者は、
「住宅街の中に点在し放置されていて、案内もない。これが栄華を誇った平安時代の藤原氏やその皇后の墓かと思うと、道長と同じく荒涼とした気持ちになる。」

と書いている。「道長と同じく」というのは、彼が浄妙寺を建立する前の木幡の墓を見た時の気持ちを言っている。詮子や彰子の皇后の墓もある筈であるが、宮内庁は敢えて特定する事は避けている。浄妙寺は、中世に廃絶し、場所は長い間不明だったが、1990年に木幡小学校のグランドで三昧堂などの基壇が発掘された。この発掘により、道長の墓の位置も推測可能になった。

 平安時代後期、日本では「末法思想」が広く信じられていた。1052年は、当時の思想で「末法」の元年に当たっており、道長の子の頼通(関白左大臣)は、父から受け継いだ宇治の別荘を寺に改めた。これが、極楽往生へ至る感想の場とした平等院である。

 現在の京都御所は、1854年の炎上の後、1855年に再興されたもの。紫宸殿(ししいでん)、清涼殿、飛香舎(ひぎょうしゃ)などが復元されている。紫宸殿は内裏の正殿であり、朝廷の重要な儀式がここで行なわれた。南側の庭に、「左近の桜」と「右近の橘」が植えられた。清涼殿は宇多天皇の頃から天皇の住む場所となった。飛香舎は、藤壺とも言われ、村上天皇の中宮安子が住んで以来、皇后の居所となった。

 1月は行事が立て込んでいたが、著者は、「朝儀などといっても、正月の年始回りや節会など、宴会ばかりで酒を飲んでいただけではないか、との反論に対し、そのとおりと答えよう。」と書いている。

 後宮は本来は男子禁制が当たり前であったが、日本の場合、清涼殿を含めた後宮に、公卿や殿上人も入る事ができた。道長は飛香舎で執務した。自分の娘などを入内させていたからである。

 1019年に刀伊の入寇(といのにゅうこう)という事件があった。高麗の北の女真族が、博多湾に攻めて来た事件である。鎌倉時代の元寇の小規模なものである。3月末に約50隻の賊船が、対馬・壱岐を襲い、ほぼ皆殺しにした。辛うじて逃れた人が、4月7日に大宰府に報告。大宰府長官であった藤原隆家は、豪族たちの協力も得て立ち向かい、約1週間で刀伊軍を退却させた。1600名以上が殺害されたりさらわれたりした。この時、博多湾に浮かぶ能古島(のこのしま)も戦場になった。この島は、ピクニックやデートで賑わう花の咲き乱れるのどかな島である。私も九州大学の1年生の時、近所の女子大学生たちと合同ハイキングに行った思い出がある。井上陽水の「能古島の片思い」という私の好きな曲の舞台でもある。
by utashima | 2009-09-09 12:47 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『道長と宮廷社会(日本の歴史06)』(大津透著) 第2章

第2章 一条朝の名臣と貴族社会

 平安時代には、貴族の日記が沢山伝えられている。例えば道長の日記『御堂関白記』は14巻伝存している。10世紀頃の歴史の中心人物の自筆原本がまとまって伝わるのは、世界史的にも稀であるという。平安時代の貴族の間では、日記の作成が盛んに行われた。今、日記と言えば、個人的な内容を記したものとなるが、当時の日記は業務日誌のようなもの。日々の殿中での政務・儀式などの記録であり、子孫に伝えるために作成した。これらの日記は、この時期の歴史研究の基礎になる史料である。

 この時期の名臣として、藤原実資(さねすけ)、藤原行成、藤原公任(きんとう)が挙げられている。

 実資(957年-1046年)は、当時の典型的なエリート・コースをたどった人物。実資は『小右記』という詳細な日記を残しており、この時代を知る上で貴重な情報を我々に提供している。現在残っているだけで50年間の記録がある。標記の本も多くを『小右記』に負っている。有名な藤原道長の「この世をば…」の和歌は、実資の『小右記』から現代に伝えられた。実資は有能な大臣であり、道長は彼を高く評価している。

 藤原行成(972年-1028年)は政務に習熟した有能な公卿であったが、書における才能の方が有名。小野道風(みちかぜ)、藤原佐理(すけまさ)と行成を合わせて、三蹟と言われている。行成は、多忙な公務の合間をぬって、さまざまな屏風に和歌や漢詩の色紙形の清書をこなしている。但し、和歌を詠む才能はなかったらしい。

 藤原公任(966年-1041年)は、摂関期を代表する文化人で、スーパーマルチタレントであった。政治面では道長であるが、文化面では公任が頂点を極めた。花山天皇の退位までは順調に出世し公卿の直前まで来たが、一条天皇の即位から師輔(もろすけ)の子孫の九条流へ政権が移り、父も死去したため出世のスピードが落ちる。三大儀式書の一つの『北山抄』を編纂した事は、今日の歴史学者に対する大きな貢献であった。
by utashima | 2009-09-07 21:55 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『道長と宮廷社会(日本の歴史06)』(大津透著) 第1章

 標記の本の第1章を読んで、興味を持った事柄を記す。

第1章 道長の登場

 道長の曽祖父の藤原忠平(880年-949年)の時代が、摂関体制の成立期と位置付けられる。天皇幼少の間は摂政を置き、成年後は関白となる制度が成立。なお道長は、殆ど摂政・関白にはならず、一条天皇は親政を行なったが、政治構造は前後の摂関時代と同様であった。

一条天皇即位の背景。
 花山天皇(968年-1008年)が寵愛した女御が懐妊後に亡くなり(985年)、世をはかなんで出家の意志を持つ。藤原兼家(929年-990年)は、好機到来とばかりに、孫の懐仁親王(かねひと)の即位計画(策略である)を綿密に立て実行した。懐仁親王が一条天皇として即位(986年)。兼家は摂政の座に着く。道長は兼家の子である。

 兼家は、摂政になると、強引に自分の一族の官位を引き上げた。これで最も得をしたのが、末子五男の道長。988年に権中納言に昇進。道長23歳。

 兼家から関白を受け継いだ長男の道隆(953年-995年)は、娘の定子(15歳)を中宮とする(990年)。この年、一条天皇は11歳で元服式を行なっている。道隆は、父兼家の政治手法を模倣し、一族の官位を上げる。この頃が、中関白家(道隆の一家をこう呼ぶ)の絶頂期。この頃の事を、定子に仕えた女房清少納言が『枕草子』に記している。

 995年、死を覚悟した道隆は子の伊周(これちか、974年-1010年、当時21歳)を後任にしようとする。伊周も強引に関白の位を得ようとするが、当時16歳の一条天皇は許さなかった。関白になったのは、兼家の子の道兼(961年-995年)。花山天皇退位劇の立役者であった。995年4月27日に関白になり、5月8日に病で死去。「7日関白」の名を残している。この時の病は、前年に筑紫(北九州)から流行した赤藻瘡(あかもがさ、麻疹(はしか)の事)であった。この時、中納言以上の14人中8人が1年間に病死。奈良時代に藤原4兄弟を倒した737年の天然痘以来の大流行であった。

 生き残った伊周と道長は、正面対決。伊周は内大臣22歳、道長は権大納言30歳。

 一条天皇は、母詮子(せんし)の意見を取り入れて、道長を内覧とする。伊周は反発し、会議室の控え室で大口論。その3日後には道長の随身が、伊周の弟の従者と七条大路で闘乱し殺害される。更に伊周は、自分が通っている娘に花山法皇も通っていると誤解し、法皇を脅す積りで矢を射かけさせた(996年)。当てる積りはなかったが、法皇の袖を射抜いた。他にも、伊周は事件を引き起こし、996年4月、道長が天皇の御前で除目(じもく)を行ない、伊周を大宰府に左遷する。伊周は中宮定子の御所にこもるが、捕えられる。定子は邸内捜索の恥辱から出家。996年7月、道長は左大臣になり、朝廷第一の座を強固なものにする。

 997年、伊周は罪を許されて召還され、一条天皇の初めての子を出産した定子も参内する。999年に道長の娘の彰子が入内し(12歳)、1000年に中宮となる。この時、定子は皇后となり、一帝に二后が並立する。しかし、定子は、1000年2月に懐妊するが、12月の出産時に亡くなる。25歳。

『源氏物語 巻一』(瀬戸内寂聴訳)の「源氏のしおり」より
 紫式部は970年代に生まれ1014年頃に亡くなったらしい。かなり年上の藤原宣孝と結婚したが、宣孝は3年ほどで病死。1001年の事。紫式部はその後数年間引き籠っていた。その間に「源氏物語」を書き始めていたらしい。すると、彰子の女房になったのは、1005年頃と思われる。瀬戸内氏は、道長が紫式部を女房にした理由は、清少納言を女房に持つ定子のもとに一条天皇が引き付けられるのを見て、対抗するためと書いている。しかし、既に定子は1000年暮れになくなっている。従って、定子と直接競うためではなく、一条天皇に足繁く彰子のもとに通って貰う方法として紫式部を採用したという事であろうか。

道長は987年22歳の時に、左大臣源雅信の娘倫子(りんし、24歳)と結婚した。彰子が生まれてから倫子が両親と一緒に住む土御門邸(現在の京都御所の敷地内にあった)に移り住み、その後道長はその家で長く倫子と一緒に生活した。両親の方が別の邸に出て行った。娘の彰子はこの邸で1008年に敦成(あつひら、後一条天皇)、1009年に敦良(あつなが、後朱雀天皇)を生んでいる。敦成出産時の1008年初秋の土御門邸の美しい情景が、「紫式部日記」の冒頭に描かれている。私はまだ読んでいないが。
by utashima | 2009-09-06 22:39 | 読書 | Trackback | Comments(2)

Cドライブ圧縮後にデフラグ

 最近は、職場の PC も自宅の PC も、月に 1 回程度の頻度でデフラグを行なっている。昨日、自宅の PC の C ドライブをデフラグしようとした時、空き容量が約15%まで減っている事に気付いた。これ以上減ると、デフラグできない恐れがある。使っていない数個のソフトやバージョンの古い JAVA ソフトをアンインストールしたが、空き容量はあまり増えなかった。そこで、C ドライブ全体を圧縮した。その結果、空き容量は、29% まで大きくなった。

 そして、デフラグを試みた。「最適化(デフラグ)できません」というメッセージが出た。デフラグ後に再起動しなければならないのかなと思い、そうすると、デフラグを実行できた。デフラグ終了時の画面表示を以下に示す。
c0011875_204581.jpg

 ドライブを圧縮すると、フラグメンテーションがかなり進行する事が分かる。デフラグしても、それほど綺麗にはならない。OS に付属のデフラグ機能の限界であろう。デフラグ後も、大きな赤色の断片化されたファイルの塊がある。これは、Google Desktop が作ったファイルである。

[補足:2009年9月11日]
 Google Desktop を一旦アンインストールしてから最新版(ver.5.9) を入れると、断片化した赤色の大きなファイル塊は消えた。
by utashima | 2009-09-04 20:45 | パソコン | Trackback | Comments(0)