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第45回衆院選挙の投票

 2009年8月30日(日)は第45回衆院選挙の投票日。午前中に家内と共に投票して来た。往復2000歩弱の適度な距離である。選挙は、毎回投票しているが、今回の投票所の込み具合は今までで最大であった。投票所の入口に既に数人が並んでいる。中に入ると、1つの部屋に投票箱が3ヶ所に置いてあり、順番に投票用紙を貰って、記入して、投票していく。幾分渋滞していた。ニュースなどで、今回の投票率は高そうだと報道されていたが、それが実感できた。
by utashima | 2009-08-30 11:20 | 最近考えている事 | Trackback | Comments(0)

約2年振りに腰痛で整形外科に

 先日の2009年8月17日昼前から腰がちょっと痛くなった。翌日18日は夏休みを取る予定にしていたので、午前中に整形外科に行った。まっすぐ立つのが苦しい。多少前屈みで歩く。仰向けに寝て、足を延ばすと腰が痛い。寝る時は、足を立てるか、横向きになるのが楽だ。先生は、「足に痺れが来ていないなら、温湿布をするだけで良かろう」と言われ、腰に暖かくなる低周波振動器の様なものを10分間程度当てて貰い、温湿布を貰って帰った。翌日の19日になっても改善しないので、会社を休み、低周波振動器(?)を当てて貰うために整形外科に行った。今日の20日は、朝から腰の調子が良くなっており、出社した。

 前回整形外科に行ったのは、2007年10月なので、約2年振りである。その間、夕方の20分程度のウォーキング、1分間のぶら下がり棒、寝る前の腰痛体操を続けてきた。17日に何故腰痛が再発したか、分からない。最近は、明け方涼しい日が続いていたので、腰が冷えたのかも知れない。でも、布団をかける程涼しくはない。と思っていたが、今朝、出勤した時に、ブリザドさんから「腹巻が良いかも」と教えて戴いた。腹巻の事は全く忘れていた。今晩から使う事にした。感謝。
by utashima | 2009-08-20 20:59 | 最近考えている事 | Trackback | Comments(0)

電気ポットの買い換え

 自宅の電気ポットの蒸気排出口が壊れた。使用において支障はないが、2001年から8年間使って来たので、買い替える事にした。

 近所の家電量販店に行った。私は、電気ポットに水を入れて沸かす方法で使っている。事前にガス等で水を沸かし、それを電気ポットに入れるという方法は採用しない。理由は、お湯が沸くまで、その場を離れられないから。私の方法での問題点は、少しお湯が電気ポットに残っている時の判断。水を一杯に注ぎ足すと、沸くまで使えない。放置しておくと、誰かが残りを使って注ぎ足さない時、お湯がない事になる。従って、お湯が少し残っている時、それを別の小タンクにボタン一つで移して、空いた主タンクに水を入れる事ができたら良いな、と思っていた。でも、構造が複雑になり、エネルギーロスも大きくなりそう。台所に十分なスペースがあれば、電気ポットを2つ置いて使うのが良いかな。

 店の電気ポットを眺めていると、保温時の消費電力が書いてある。私は3リットルのものを買うが、32Wという値もあった。3リットルで最も保温時電力の小さいものは、14Wであった。でも、高い。そこで、約8000円の18Wのものを買った。タイガー電気魔法瓶とく子さん(PVN-A300-H)である。今まで使っていたものは、24Wであったから、25%の省エネになる。

[追記:2009年8月31日]
 新しい電気ポットは、湯を注ぐ時の流量が、旧型よりも多少小さい。他の家族も同様に感じている。旧型では、湯がカップの液面で跳ねてカップを持っている手に当たり、熱い思いをした事がある。新しい電気ポットでは、そういう事がないように、流量を抑えていると想像している。細かいところにも進歩がある。
by utashima | 2009-08-12 18:21 | 省エネルギー | Trackback | Comments(0)

囲碁「上達カルテ」で初の満点

 2008年5月よりネット囲碁対局サイト「新WWGo」で、月4回程度の対局を楽しんでいる。新WWGo会員になると、対局だけでなく、上達のための幾つかのサービスを受けられる。その一つに「上達カルテ」がある。

 「上達カルテ」では、布石、定石、中盤、ヨセ、手筋、死活の6ジャンルから1問ずつ計6問が毎週出題される。数ヶ所の着手候補の中から最善手を当てる問題。正解が10点。今までの1年数か月の挑戦で、6問全てで10点満点を取った事はない。3問~4問で10点を取る程度だった。8月の最初の週の問題で、初めて全問10点満点だった。と言っても、最近の対局成績が特に良い訳ではない。
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 先月、過去3ヶ月、過去1年の成績も分かる。過去数ヶ月程度の成績では、3段程度と評価されているが、先月の成績はヨセが初段と低レベル。変動が大きい事は、まだ実力が低い事の現われか。
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by utashima | 2009-08-08 09:42 | 囲碁 | Trackback | Comments(0)

『律令国家の転換と「日本」(日本の歴史05)』(坂上康俊著)

 この巻は、8世紀末~10世紀初めの日本の歴史を扱っている。中心は9世紀、初期平安時代である。読み終えて印象に残っているのは、権力(天皇の地位)を握るための多数の策略や事件(変)である。

 770年10月1日、天智天皇の孫の白壁王が、光仁天皇として即位。62歳。約1ヶ月後、妻の井上内親王(聖武天皇の子供)を皇后とし、その子供の他戸親王を皇太子に定めた。

 然しながら、藤原良継や藤原百川らは、光仁天皇の後継者を暗黙裡に山部親王に決めていたらしい。772年3月2日、井上皇后は天皇を呪詛した疑いをかけられて皇后の地位から下ろされ、5月には他戸親王も廃太子となった。773年1月2日、山部親王(37歳)が立太子。廃された井上と他戸は、幽閉された後、775年4月の同じ日に殺された。なお、山部親王の母は、百済系渡来人の娘であった。この一連の悲劇は、藤原百川によって仕組まれた冤罪であったらしい。

781年4月、山部親王は光仁天皇の譲位の後、即位し、桓武天皇となる。

 桓武天皇は781年の即位の時、弟の早良親王を皇太子に立てる。著者は、天智(兄)と天武(弟)の関係を想起させ不吉という。桓武天皇には774年に安殿(あて)親王が誕生していたが、まだ幼い。783年に桓武天皇は安殿(あて)親王の母を皇后とする。この時点で、早良皇太子の立場は微妙になる。785年に、長岡京の造営を進めていた藤原種継が、矢で射抜かれて翌日死亡。早良皇太子支持派の犯行と分かり、早良親王も幽閉され、1週間水分も与えられずに衰弱死させられる。

 種継暗殺の処理が終わった後、785年11月、安殿(あて)親王が皇太子となる。しかし、788年5月に藤原旅子(桓武の側室)が、789年12月に桓武天皇の母が、790年に安殿皇太子の母(桓武天皇の皇后)が、立て続けに亡くなる。792年に皇太子安殿が病床に伏すことになり、桓武は長岡京の造営を断念する。早良親王の祟りが原因とされる。

 794年、今の京都の地 平安京に遷都する。暫く平安の日々が続いたが、皇太子安殿の心身の不調が心配なため、800年に故早良親王に崇道天皇の号を送り、故井上内親王も皇后に復する処置を取る。桓武天皇が処分した人たちの怨霊を鎮めるためである。また、安殿皇太子は、皇太子妃の母であった種継の娘薬子とも関係を持っていた。

 806年、桓武天皇は70歳で死去。すぐに皇太子安殿が即位し、平城天皇となる。自分と同じ母の弟の神野親王を皇太子とする。

 807年、伊予親王事件が発生する。藤原宗成が桓武天皇の皇子の一人である伊予親王に謀反を勧めた事件。これが発覚し、伊予親王とその母は、幽閉され、飲食を止められた後、毒で自殺する。伊予親王は、桓武天皇に好かれていたらしく、平城天皇の過剰防衛と考えられている。

 平城天皇は、故早良親王の怨霊だけでなく、伊予親王母子の怨霊にまで怯えるようになり、風病(躁鬱病?)が再発して、809年に譲位する。これを受けて、弟の神野親王が即位し、嵯峨天皇となる。平城の皇子の高岳親王を皇太子とする。しかし、高岳親王の母である伊勢継子に皇太后などの号を与えていないため、高岳親王の位置付けは不安定なものであった。

薬子の変(810年)
 譲位した平城上皇は、譲位した809年に寵愛していた藤原薬子や多数の官僚を連れて平城故宮に移る。当時上皇は詔勅を発出することが認められており、810年9月に上皇は平城京への還都命令を出す。嵯峨天皇はこれに反発し、薬子の兄の仲成を逮捕・監禁し翌日射殺する。上皇は、東国で再起を図ろうとするが、坂上田村麻呂らの軍勢に阻止され、出家する。薬子は毒を仰いで自殺。平城上皇は、その後、51歳まで生きる。

 これまで、上皇と天皇のどちらに究極の皇権があるかが整理されていなかった。権力構造に欠陥があった。嵯峨天皇は、すぐに動いて、上皇を政治の中枢から排除する政治システムにした。

 薬子の変により、高岳皇太子は廃され、桓武天皇と藤原旅子の間に生まれた大伴親王(後の淳和天皇)を皇太子とする。ところが直後に、嵯峨天皇に正良親王(後の仁明天皇)が生まれる。数年後に、正良親王の母を皇后とした。このため、大伴皇太子の立場が微妙なものになった。

 823年、嵯峨天皇が譲位し、大伴皇太子が即位し、淳和天皇となる。無事に天皇にして貰った事と引き換えに、正良親王を皇太子とした。

 淳和天皇は、833年2月28日に譲位する。正良皇太子は践祚(皇位を受け継ぐ事)し、淳和天皇の子供の恒貞親王を皇太子にして、仁明天皇として即位した。その時点の有力な2家系の間で、皇位を持ち回っているが、その家系間の神経戦は相当なものだった。

 842年に嵯峨上皇が死去。淳和上皇はその2年前に死去している。嵯峨上皇の死去の直後に、恒貞皇太子を奉じて伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)が東国で挙兵、仁明天皇を廃そうとする計画が露見する。この計画に誘われた阿保親王(平城天皇の皇子)が密告して発覚。皇太子恒貞は廃され、藤原良房の甥の道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となる。これが、承和(じょうわ)の変

 このように、頻繁に政変が発生している。とても平安とは思えない初期平安時代である。
by utashima | 2009-08-03 21:15 | 読書 | Trackback | Comments(0)