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尾道ラーメン

 今日(9月30日)、初めて尾道ラーメンをお店で食べた。

 尾道ラーメンという名前は、尾道に住んでいた子供の頃(昭和45年まで)は、聞いた記憶が無い。当時の我が家は殆ど外食をしない習慣だったので、私の目耳に入らなかっただけかも知れないが。そこで、ネットで『尾道ラーメンの歴史』を調べてみた。昭和3年頃から登場しているが、現在の瀬戸の魚介類を主体とした透き通って味わいのあるスープの尾道ラーメンになるのは、昭和30年代から40年代にかけて、と書かれている。という事は、尾道付近に住んでいたラーメン好きの人は、その頃から知っていたものと思われる。私が、尾道ラーメンを初めて食べたのは、多分10年位前に、尾道の兄から送って貰ったもの。

 昨日、大学生の次男が筑波にちょっと帰って来た。そして、今日の昼食に、近所にある尾道ラーメンの店に行こうという事になった。出かけた店は、『尾道ラーメン醤醤軒』。昨日から、急に気温が下がり、暖かいものが美味しくなってきた。私が注文したのは、「ねぎ焼豚ラーメン」。下の写真がそれ。焼豚が沢山あり、麺が下に隠れている。あっさりしたスープで美味しかった。
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by utashima | 2007-09-30 14:27 | イベント | Trackback | Comments(2)

カウンタの設定を変更

 1,2ヶ月前から、私のブログへのアスセス数が多少増えている。1時間毎のアクセス数を見ると、平均的には 10 程度であるが、時々、30~70 にもなっている事がある。その時間帯を更に調べると、同じ人が色々な記事に連続してアクセスしている事が判った。ブログに貼り付けているカウンタは、今までは二重カウント防止の設定にしていた。同じ人からの連続したアクセスはカウントしない設定である。この設定のため、同じ人が 1 時間に 70 回もアクセスしても、ブログに貼り付けたカウンタには反映されなかった。私としては、同じ人に連続してアクセスして貰うのも嬉しい事なので、これもカウンタに反映されるように、二重カウント許可の設定に変更してみた。
by utashima | 2007-09-23 12:08 | ブログ作成の経過 | Trackback | Comments(0)

まだ会った事のない親戚(歌島さん)からの連絡(4)

 2007年9月21日、まだお会いした事のない4人目の歌島さんから連絡を戴いた。ご本人の了解を戴いたので、簡単に紹介します。 

 現在、名古屋市に住んでおられる40歳位の男性の方で、ご両親は大阪にお住まい。お祖父さんは、山口県岩国市で歯科医をされていた。この方の姓の読み方は、「うたじま」との事。私の姓は、「うたしま」です。何故異なるのか、興味のあるところです。この方の家系は、比較的早く尾道(向島)を離れられたように思われますが、私とも親戚関係にあると思いました。

 この方の小学生の息子さんは、今年の夏に日本棋院で開催された囲碁大会に出場されたとの事でした。リンク先に、お名前があります。小学生から囲碁をしていると、強くなるでしょう。頑張ってください。

 今まで私が知っている歌島さん達の住んでおられる場所は、尾道市、福山市、広島市、出雲市、札幌市ですが、新たに、大阪市、名古屋市が加わりました。
by utashima | 2007-09-21 23:37 | 歌島姓・尾道 | Trackback | Comments(0)

思い通りの1局

 9月に入っても残暑が続いている。エアコンの無い場所でのネット囲碁対局は集中できないので、9月の対局数は、まだ3局。9月16日に行なった4段との対戦の結果を以下の図に示す。中押し勝ち。ほぼ構想通りに打つ事ができた。私が白。
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 ピンク色の黒石群を青色の白石群で攻めたが、途中から無理と判断。攻める対象を下の赤色の黒石群に変更した。そのため、ピンク色の白石を攻めながら、ピンク色と赤色の間を白石で分断。これに成功して、勝負はついた。

 左下隅は、ダメが詰まって相手の黒石の形に欠陥が見えたので、黄緑色の白石を打ち込んでセキにし、相手の十数目の地をゼロにした。なお、セキにできると読んでから、打ち込んだ訳ではない。まだ、そのレベルには達していない。取られても損はしないので打ち込んだが、打っている間にセキが見えてきた。
by utashima | 2007-09-17 11:37 | 囲碁 | Trackback | Comments(0)

『フェルマーの最終定理』(新潮文庫)

 『フェルマーの最終定理』(新潮文庫)を読んだ。500頁近い厚い本であるが、約1週間で読み終えた。私は、毎日少しずつ読むのが好みであるが、内容が面白いので、私にしてはハイペースで読んだ。

 1994年(論文として出版されたのは1995年)に「フェルマーの最終定理」を証明したアンドリュー・ワイルズが主人公である。ワイルズは、10歳の頃、E.T.ベル著の『最後の問題』を読み、そこに「フェルマーの最終定理」を見つけ、虜になったようだ。E.T.ベルという名前に、見覚えがあった。私の書斎の書棚を振り返ってみると、E.T.ベル著『数学を作った人々Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』(ハヤカワ文庫)の三分冊があった。1937年に初版が出ている。タイトルが大きく異なるので、この本は、10歳のワイルズが読んだものとは異なると思われるが、感慨深い。

 フェルマーがこの問題を提示するきっかけになったピタゴラスの定理を証明したピタゴラスの頃まで遡って、数学の証明についての歴史が述べられている。沢山の数学者が登場するが、その中で最も心を動かされたのが、ガロアについての記述。ガロアは代数方程式の解に関する論文を書き、新しい数学「群論」の扉を開けた人である。彼は、若くして決闘に敗れて一生を終えた事は、幾つかの本で知っていた。標記の本には、彼の置かれていた境遇が詳しく書かれており、同情を禁じえない思い。フランス革命後の王政主義と共和制主義の間の政治闘争の犠牲者であった。また、フランスの学士院に提出すべく書記を務めていたフーリエに提出した論文が、フーリエの死亡により学士院に受理されていなかった等の不運も幾つか重なった。

 ガロアの話が出てきたのは、ワイルズが「フェルマーの最終定理」を証明する時に、ガロア群も利用していたからである。ワイルズは、1986年から本格的に「フェルマーの最終定理」の証明に取り掛かった。7年後の1993年6月にそれを証明した事を発表した。この7年間、自分が「フェルマーの最終定理」に挑戦している事は、秘密にしてきた。発表後、証明に欠陥がある事が判明。この頃の事は、私も新聞などのニュースで知っていた。それから1年余り、証明の欠陥を修復しようと苦しい日々が続く。そこまでの証明を公開して修復を誰かに託す事はせず、あくまで自分で解決したいと頑張る。1994年夏になっても解決の目処がたたない。ワイルズは、9月末まで頑張ってもダメな時は、そこまでの証明を公開する決心をする。

 その決心の後、ワイルズは、閃きを得た。1993年発表の証明で使用した方法 (A) は、別の方法 (B) が使えないと判断して使用していた。ところが、欠陥は、その(A) の適用にあった。(A) と (B) の単独での適用はダメだが、両者を組み合わせると、欠陥がなくせるという事だったらしい。この閃きにより、「フェルマーの最終定理」は、完全に証明され、本当の定理になった。

 この閃きの部分を読んだ時、以下のように感じた。「9月を過ぎれば、欠陥を修復しなければならないという重圧から解放される」という思いが、それまで見過ごしていた分岐へ導いたのではないか。私にも、ちょっと似た経験がある。学位論文の最後の詰をしていた1999年秋。どうしても巧く行かず、学位取得を諦めた。指導して頂いていた宇宙研の川口教授にメールして、問題を解決できなかった事をお詫びした。学位論文のテーマにしようとしていた或る軌道の不安定現象は、1992年に見つけていた。この問題をいつも考えていた訳ではないが、7年間、ずっと頭の片隅にあった。川口教授にメールを出す事で、肩の荷が下りた気がした。目的は達成できなかったが、取り敢えず重圧からは解放されると。メールを出した当日か翌日かは覚えていないが、それまで不安定と思い込んでいた条件で、PC に軌道計算をさせた。何も目的は無かった。不安定なためにどこかに飛んで行くと思っていたが、何と安定な軌道であった。この計算がきっかけとなって、この不安定現象の解明が出来、学位を頂けた。あの時、学位を諦めるメールを送っていなければ、その不安定現象を解明できたかどうか。

 ワイルズが1986年から本格的に証明に取り掛かった動機は、その年に、ケン・リベットの証明により、「谷山・志村予想」が解ければ「フェルマーの最終定理」が解けた事になる事が判ったからであった。「谷山・志村予想」を考えた一人の谷山豊氏は、婚約後に自らの命を絶っていた。1958年(31歳)の事であった。その数週間後、婚約者も後を追った。
by utashima | 2007-09-15 18:25 | 読書 | Trackback | Comments(0)

PTP対応カメラ

 先日、娘が、「バイトで貯めたお金で、デジカメを買いたい」というので、近所のヤマダ電機に一緒に出かけた。

 私は、約4年前の2003年暮れに、FUJIFILM の FinePix F700 (下の写真) を買っている。
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お店で色々見たが、同じ FUJIFILM の FinePix Z5fd (下の写真) を買った。今月末に新型が発売になる予定のためか、かなり安い価格であった。性能的には、4年前の F700 を上回っているようだ。
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 娘が FinePix Z5fd を持って出かけた旅行から帰って来たので、デジカメの写真を PC に保存する方法を教えた。最後に、デジカメを PC から取り外す時の注意点を教えようとして、F700 の時と PC の動作が異なる事に気づいた。

 F700 の場合は、先ずタスクトレイ(下の図を参照)にある「緑の矢印」(ハードウェアの安全な取り外し)を 左クリックする。すると、USB 接続されているドライブ名の一覧が表示されるので、取り外すデジカメのドライブ名をクリックする。これで取り外しが OK となり、デジカメの電源を切って、USB ケーブルを外す。
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 Z5fd の場合も同様にすると、「緑の矢印」を押して表示されるドライブ名の中に、デジカメが存在しない。仕方ないので、デジカメの電源を切り、ケーブルを外した。この措置で、デジカメのメモリ・カードに問題は発生していないことを、再度 PC に接続して確認した。

 後で、Z5fd のマニュアルを読んで、上記の取り外し方で良い事を知った。更に、このデジカメは、PTP (Picture Transfer Protocol) というプロトコルに対応しており、Windows Xp もそれに対応している事を知った。

 4年間の間に、少し便利になっていた。
by utashima | 2007-09-06 20:07 | パソコン | Trackback | Comments(0)

『活動寫眞の女』(浅田次郎著)と京都

 先日、映画『地下鉄に乗って』を観、浅田次郎著のその原作も読んで、浅田次郎氏の作品に惹かれた。彼は私と同じ年であった。彼の描く青春時代(昭和45年頃)は、私も福岡市で学生をしていた。『活動寫眞の女』は、昭和44年に京都大学に入学した主人公 三谷薫の、入学から半年程度の期間の話である。昭和44年は、学生紛争のために東京大学の入学試験が中止された年であった。地元の東京大学を目指していた三谷は、そのため、京都大学文学部に入学した。主人公は映画が好き。映画館で偶々知り合った京都大学医学部2回生の清家忠昭と話が合い、彼の紹介で太秦(うずまさ)の撮影所でアルバイトをする事になる。その撮影所で、既に昭和13年に亡くなっていた大部屋女優の伏見夕霞を見かける。『地下鉄に乗って』のように、ここでもタイム・リープが発生。不運な一生だった伏見夕霞の映画への強い想いがタイム・リープを引き起こす。

 伏見夕霞や三谷薫などは架空の人物のようであるが、登場する映画、俳優、映画監督などは実在のもの(ひと)である。私は、最近こそ年に10本以上の映画を観ているが、数年前までは殆ど観ない生活をしており、そのような映画や監督が本当に実在したのか、一つずつネットで検索して確認した。日本映画の歴史の勉強にもなった。

 話の内容は感動させられるものであるが、それだけでなく、舞台となる京都の沢山の場所を、Google Maps で確認しながら読むのも楽しかった。以下に、その全体地図を示す。青のマークは私が付けたもの。ここをクリックすると、Google Maps が表示される。
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 三谷薫の下宿、清家忠昭の家は、架空の場所なので明確には書かれていないが、文章の表現から私が推定した場所をマークしてみた。登場した地名は、殆ど聞いた事のあるものであったが、京都には何十年も前に2回しか行った事がないため、場所が判らないものが多かった。場所を Google Maps で確認する作業により、位置関係がはっきりした。私は大学1年生の夏休みに、京都を数日間一人で旅した。その時の事も思い出しながら作業した。その時は、京都大学の吉田寮に泊めてもらった。天龍寺、三千院にも行ってみたように記憶しているが、三千院が京都市内からかなり離れている事に驚いた。
by utashima | 2007-09-02 00:20 | 読書 | Trackback(1) | Comments(0)