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JPL に滞在した20年前の日記を読み返した(6)

 今回は、1987年2月頃~7月頃の個人的な生活について記す。

 私が朝車で JPL に出勤してから午後6時頃に帰宅するまで、家族は近所を散歩する他は出かける事ができない。家内も国際運転免許証を持って来ているが、我が家の唯一の車を私が使っているため。そのため、殆ど毎週の週末は、ロサンゼルス近郊の名所や観光地に家族全員で日帰りドライブを楽しんだ。FreeWayを使って行くが、文字通り free なので交通費は廉いガソリン代だけ。それに、日本と違って、土日でも殆ど渋滞がなかった。

 しかし、楽しいばかりではなかった。見知らぬ場所に行くので、事前に地図で道路を確認しなければならない。前日の夜は、地図を見て、翌日走るコースを検討する。コースが決まったら、FreeWay を乗り換える場所で左右どちらのレーンに入っていなければならないかを調べる。その結果を頭に入れるために、ルートとレーン・チェンジの概略を紙に書き出す。ここまで準備をして、翌日出かけた。家内は外の景色を楽しむだけで、殆どナビゲーターをしてくれないので。

 このリンク(Google Maps) に、観光で出かけた場所を記した。以下に、出かけた主な名所/観光地を掲げる。

Knott's Berry Farm
 ディズニーランドと意外と近い場所にあったのだな、と再認識した。2回出かけた。
ディズニーランド
 ディズニーランドへは3回出かけた。なお、私は、東京ディズニーランドには、まだ行った事はない。
Exposition Park
 ここの自然博物館に行き、恐竜を見て来た。近くに、City of Los Angeles というジェット旅客機が置いてあり、子供たちは、ジェット・エンジンの大きな空気取り入れ口に入り込んで喜んでいた。上にリンクした Google Maps を拡大してみると、超音速偵察機 SR-71 のような形のジェット機が見える。ここを見ると、2003年頃から展示されているようだ。日記には書いてなかったが、こうやって調べていると、この敷地にある California Science Center の Air and Space Exhibits にも入り、沢山の展示物を眺めた事を思い出してきた。なお、Exposition Park には、1984年に開催されたロサンゼルス オリンピックのメイン会場もある。
リトル東京
 4月12日(日)に、初めてリトル東京に出かけた。ロスに到着2日後の1986年10月27日に、ダウンタウンにある銀行に行き、口座を開設したが、この時、帰路で1度道に迷った事があり、それ以来、ダウンタウンへは、必要がない限り行きたくなかった。しかし、約半年経ち、ロスの街にも幾分慣れてきたので、日本人街に行って見ようという気になった。1日停めても2ドルという廉い駐車場もあり、その後、何度か出かける事になる。
・サンディエゴへの1泊旅行
 5月23日(土)からサンディエゴへの1泊旅行に出かけた。ホテルの予約をしないで出かけた。ちょっと高かったが、Mission Blvd の Pacific Terrace Inn に1泊 165 ドルで泊まった。2年前の1985年に open したばかりだった。太平洋に面した綺麗なホテル。現在は、Pacific Terrace Hotel と改名されていた。その日は、夕方まで海沿いに南下して、Cabrillo National Monument などを見物した。サンディエゴは、綺麗な町だった。翌日は、Sea World を楽しんだ。
Universal Studio
UCLA

 1987年4月5日(日)の午前(多分)2時が3時に進められた。Daytime saving time の開始であった。1986年10月末にロサンゼルスに到着した時は、丁度通常時間に戻った直後だったし、元々日本からの大きな時差の移動を伴っていたので、1時間の違いの影響は感じなかった。しかし、4月5日に強制的に1時間進められた事の体への影響は、約1週間続いた様に記憶している。この厭な経験から、私は夏時間の導入には反対である。

 4月の末に、家内の親友(女性)が新婚旅行でロサンゼルスに来られた。私がハリウッドのホテルまで二人を迎えに行き、Arcadia の我が家で食事を共にした。夜11時頃、ハリウッドのホテルまで送り届けた。Hollywood FreeWay は初めて走ったので、一度道を間違え、一旦 FreeWay を降りて反対方向の FreeWay に入り直して、目的のホテルに無事に送り届ける事ができた。

 7月11日(土)から 1週間の予定のドライブに出かけた。西海岸に沿ってサンフランシスコまで走り、ヨセミテに回って内陸部を南下してロサンゼルスに戻るコースである。Solvang で昼食を摂り、San Simeon のモーテルにチェックイン。すぐに、Hearst Castle へ。1号線の近くにツアーバスのターミナルがあり、そこから約10km 内陸にある Hearst Castle へバスで向かう。昔のメディア王の別荘らしい。モーテルに戻って寝たが、2歳5ヶ月の次男が12時頃から泣き始め、フロントから苦情が数回来た。外の車の中で泣き止むのを待ったり。次男の体調が悪いと判断し、このドライブを中止して翌日に帰路についた。

 なお、Hearst Castle へのバス・ターミナルにあった Fast Food 店で軽い食事をしたが、食後にお盆を返却する時に、「この盆を1つ売って欲しいのですが。」と聞くと、店員さんは、「料金は要らない。持って行って良いよ。」という返事。その盆の左下には、Hearst Castle の文字と絵が描かれている。20年後の今も我が家で使っている。

 (その7) に続く。
by utashima | 2007-07-24 15:34 | イベント | Trackback | Comments(0)

JPL に滞在した20年前の日記を読み返した(5)

 1987年2月頃~7月頃の研究以外の JPL での活動について記す。

 1987年2月4日22時30分(ロサンゼルス時間)に、宇宙研の衛星 ASTRO-C が予定通りに内之浦から打ち上げられた。私も、午後8時に JPL に出勤し、JPL の支援活動に参加した。私の区画のある BLDG 301 とは別の建物に大きなスクリーンなどを備えた管制室があるが、このような支援作業は、BLDG 301 の地下1階の小さい角部屋と廊下を使って行なわれる事が多かった。ちょっと驚いた。

 2月24日は、NASA の静止気象衛星 GOES-H が打ち上げられる予定だった。2回延期されて、2月26日15時05分(ロサンゼルス時間)に打ち上げられた。20時30分頃、支援作業の責任者の Efron 氏が、ドップラー・データを見せてくれた。振幅が 3mm/s 程度のサイン・カーブが続き、時々 5mm/s 程度のジャンプがある。Efron 氏達は、上記のドップラー・データの変動が何を示しているか、すぐには判らないように見受けた。JPL が運用する DSN (Deep Space Network) に、GSFC (Goddard Space Flight Center) の地上局網 STDN (Spacecraft Tracking and Data Network) が統合されてから、余り年数が経っていない時期であり、Hughes 社 (現在は Boeing 社) の静止衛星の打上げ支援作業の経験がなかったのかも知れない。私は、「サイン・カーブは衛星のニューテーションによるもので、小さいジャンプは ANC (Active Nutation Control) によるものではないか。」と述べた。Efron 氏は電話で問い合わせて、それを確認してくれた。GOES-H は、日本の静止気象衛星ひまわり (GMSシリーズ) と同様に Hughes 社の衛星であり、GMS を担当していた私には、馴染みのある衛星だったので、容易に推定できた。
 1981年8月に打ち上げられた静止気象衛星2号機 (GMS-2) が、トランスファ軌道からドリフト軌道への軌道変換である AMF (Apogee Motor Firing) を行なった時のドップラー・データを解析した事がある(*)。その頃の日本のドップラー・データのランダム・ノイズは、100mm/s 前後の値であった。JPL のドップラー・データの精度は、当時の日本より100 倍も高精度であった。現在の JAXA のドップラー・データの精度をネットでざっと調べてみると、もうすぐ打ち上げられる Selene 月観測機の母衛星と新GN 局の間で約 2mm/s 、口径64m の臼田局と子衛星の間で 0.2mm/s という誤差であった。日米の差は殆どなくなっているのかも知れない。

(*)広田、歌島、"ドップラ・データによるアポジモータ燃焼中の速度ベクトル等の推定と評価," 宇宙開発事業団技術報告 TR-13, 1982年8月.

 GOES-H は第2アポジ点で AMF を行ない、ドリフト軌道に入った。Apogee Motor 噴射中の温度に異常があり、ちょっと心配したが、AMF 後の軌道要素は正常だった。

 3月16日の事。宇宙研の Planet-A (ハレー彗星探査機) のレンジングをしようとして、できない事があった。JPL の人が宇宙研に電話をしたが、日本は深夜のため連絡できず。臼田局なら人がいるだろうという事で、私が通訳を兼ねて電話した事があった。

 NASDA が JPL に支援を依頼している静止衛星 ETS-V や静止通信衛星 CS-3 の打上げ時の運用に関して、JPL 内の会議や、筑波との Tele-Conference 等に何度か出席した。ETS-V は8月20日打上げの予定だった。6月11日~16日までは、NASDA の追跡部門と JPL との定例の会議 NOWG (Network Operation Working Group) meeting が開催され、NASDA から 2名が JPL に来られ、私も出席した。

 (その6) に続く。
by utashima | 2007-07-21 22:30 | イベント | Trackback | Comments(0)

一時的視野欠損

 数日前の夕方、職場でパソコン画面を見ていると、見たい部分の少し右隣の小領域が見えない事に気付いた。視野が欠損している領域の見え方は、モザイクが掛かったような感じだった。下に、その時の状況を図示してみた。このモザイク状の領域は、片目を閉じても、両目を閉じても同じように見えた。従って、原因は網膜ではなく、脳内にあるように思った。
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 この状況は、約20分で解消し、正常な視野に戻った。正常に戻る前から、過去に2回似た症状を経験していた事を思い出していた。その時も10~20分で正常に戻ったので、今回も暫く待てば解決すると思っていたが、その通りになり、一先ず安心した。過去2回というのは、20代半ば頃と、40代半ば頃であった。それらの時は、視野欠損部の見え方はモザイク状ではなく、真っ黒だったように思う。

 原因が脳内らしいと思うと、少し気になるので、7月21日(土)の午前中に近所の眼科に行って診てもらった。眼圧とか視力とかの検査に異常はなかった。先生のお話によると、大抵の人にある現象との事。先生自身も経験されていた。原因は、脳内の血管が一時的に収縮する等して血行が悪くなる事らしい。人によっては、頭痛も発生する事もあるとの事。30分以上は続かないようなので、このような症状が現れたら、暫く休憩して下さいという事だった。

 
by utashima | 2007-07-21 13:30 | 最近考えている事 | Trackback | Comments(2)

JPL に滞在した20年前の日記を読み返した(4)

 JPL のすぐ隣のセクションで Aeroassisted Orbital Maneuver の研究をしていた Dr. Kenneth Mease に研究テーマを貰い、1987年2月から研究を開始した。Guidance の問題と最適化の問題を提示された。Guidance は私に経験が無い事、Guidance の前にノミナル trajectory の最適化が必要な事を考えて、最適化の問題を選択した。具体的には、シャトルのような space plane の空気力と推力を両方使って軌道面を変える問題(Synergetic Plane Change Maneuver)である。高度 300km の円軌道において、傾斜角を28.5度から48.5度に変更する。空気力を利用するため、最初に減速して高度数十km まで大気圏に突入する。機体によって指定される空力加熱率の限界値に沿って機体を大きくバンクして飛行して(推力も使用)傾斜角を変え、その後推力を使って大気圏を脱出して元の高度の軌道に戻る。この研究については、このブログのここに記している。

 最初は、最大原理を用いて定式化を行ない、それを非線形計画法で解く事を考えた。以前に NASDA で液体アポジ・エンジンによる最適化を行なった時に使った方法である。しかし、この方法は失敗だった。液体アポジ・エンジンの場合は、インパルス近似が良い近似であり、随伴ベクトルの初期値の見積もりが容易であった。一方、Synergetic Plane Change Maneuver では非線形性が大きく、随伴ベクトルの初期値設定さえできなかった。5月の中旬まで頑張ってみて諦めた。この失敗の報告書を書くと共に、別の方法で検討を始めた。

 それは、離散的な時点で定義したspace plane の迎え角、バンク角、推力値などを、制約条件の下に、最適化するという方法である。当時、制約付き最適化問題を解くサブルーチンは、JPL には無く、制約なし最適化問題のサブルーチン(QNMDIF) を使い、ペナルティ関数で制約を考慮する方法を使った。解析ソフトができて動かし始めたが、余り解が改善されない。私の定式化が悪いのだろうと思い、色々な事を試してみた。しかし、解が改善されない。これは、サブルーチン QNMDIF がおかしい、と考えるようになった。JPL のライブラリのマニュアルに載っている例題を解いてみた。何と、例題が解けなかった。改良された Hessian のコレスキー分解で overflow が発生していた。

 ライブラリの管理をしている人に話をし、QNMDIF のバグを認識してもらい、調査と改修を依頼した。しかし、彼は、「調べている時間が無い。君が調べるか。」と言う。仕方ないので、QNMDIF のソースファイルを全て調べた。元々の QNMDIF にバグがある事は考え難い。JPL の中で誰かが手を加えたりした時にバグが入った可能性が最も高いと予想していた。そういう眼で見ると、数日でバグが発見できた。QNMDIF の中で使う最小実数と最大実数の定義に誤りがあった。これを訂正して例題を解くと、すぐに正解が得られた。
 この時の計算機は、VAX 11/780 であった。その前は、大型計算機 UNIVAC を使っており、ライブラリを VAX 11/780 用にコンバージョンした時にバグが入った様であった。当時の JPL では、1台の VAX 11/780 を 30人位の研究者が使っており、勤務時間中は、かなり混んでいた。よって、夜に走らせて、翌日結果を得ることもしばしば行なった。

 このバグを改修した後は、比較的順調に解析が進行し、7月後半に殆どの結果を得て、報告書を作成するまでになった。振り返ってみると、QNMDIF を使う前に、まず例題を解いてみるべきであった。しかしながら、当時の私にとって、JPL は絶対的な存在であり、そこが持っているライブラリにバグが入っているという事は予想だにしなかった。

 下の写真は、1987年6月29日に当時富士通(株)の加藤氏に撮って頂いたもの。左の机に VAX 11/780 の端末が置いてある。
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 (その5) に続く。
by utashima | 2007-07-16 23:58 | イベント | Trackback | Comments(0)

JPL に滞在した20年前の日記を読み返した(3)

 (その2) では、1986年11月初め~1987年1月末の主に仕事の話を書いたが、ここでは同時期の仕事以外の事を記す。

 Arcadia, Pasadena から北を見ると、高い山が連なっている。ここに、標高1742m のウィルソン山がある。エドウィン・ハッブルが活躍した事で有名なウィルソン山天文台がここにある。追突事故から6日目の11月9日(日)に、家族でウィルソン山天文台へ観光に出かけた。3日前に相手の保険会社が支払うレンタカーを入手していた。下に、天文台への道を Google Maps で示す。
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JPL を通り過ぎてから北上し山の中に入って行く。途中2号線から分かれて天文台へ。自宅から約1時間の行程。道路の片側が深い谷になっており、走っていて怖かったのを思い出す。天文台の近くに数十台は泊まれそうな広い駐車場がある。観光客が食事をする事の出来る簡単なレストランもあり、ここでサンドウィッチを食べた。そこから、数百メートル歩くと、Solar tower telescope が2つ、望遠鏡の入ったドームが2つあった。その内の一つが、有名な口径 100inch の望遠鏡。ただ、この望遠鏡は、その時何かの工事をしていて、中を見る事はできなかった。下に、Google Maps で望遠鏡と駐車場を示す。青マークが 100inch の望遠鏡、左下の広い空き地が駐車場である。
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 12月1日から長男が Holly Avenue Kindergarten に通う事になり、家族全員でその幼稚園に行き、担任の先生に挨拶して来た。下に、自宅と幼稚園の位置関係を示す。約3kmの距離である。右上の青マークが自宅、左下の青マークが幼稚園である。
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school bus を利用して通園した。一度、いつもの時間に帰って来ない事があった。家内から JPL の私に電話があり、私から幼稚園に電話して調べて貰った。暫くして帰って来た。school bus のいつもの降車場所で長男が寝ていたので、運転手(女性)が起こすのは可哀想と思い、最後まで回ってから、私の自宅の近くに降ろしてくれたのだった。

 12月のクリスマスが近づくと、Pasadena の何ヶ所かの住宅街でクリスマスのデコレーションが例年行なわれている。下の図は、JPL の Employee Recreation Center (お土産グッズなどを販売している売店) に置いてあったチラシである。
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これらの場所を車でゆっくりと走って楽しんだ。ネットを探してみると、Balian House の飾りの写真が、ここに掲載されていた。

 (その4) に続く。
 
by utashima | 2007-07-15 14:46 | イベント | Trackback | Comments(0)

10年前の Fortran PowerStation 4.0 を自宅に設定

 家庭でも、ちょっとしたプログラムを書いて、計算してみたい時がある。2000年以前には、C++ や FORTRAN のコンパイラをインストールしていた。200年頃以降は、何故か家庭の PC に、どんな言語のコンパイラーもインストールしていない。しかし、現在、計算したい事がある訳ではないが、再びコンパイラの一つ位、インストールしておきたいと思うようになった。すると、私の場合、使い慣れた Fortran コンパイラという事になる。自費で買うと、10万円前後の出費となり、耐え難い。会社の同僚から、free の Fortran コンパイラも出ている事を教えてもらったので、ネットで調べてみようと考えていた。

 また、先日から、私の書斎の片付けをゆっくりと行なっている。数日前には、MO ディスクやフロッピー・ディスクを大量に廃棄した。そして、書棚の上を見ると、マイクロソフトの Fortran PowerStation 4.0 の箱があった。このコンパイラは、1996年3月に36000円で自費で購入したもの。これは、Windows 95/NT 用の Fortran コンパイラであり、DOS 版の MS FORTRAN 5.1 の後継製品であった。MS FORTRAN 5.1 は、私は 1991年末に自費で購入し、仕事でも使用していた。もし、今の PC で Fortran PowerStation 4.0 をインストールできれば、使ってみようと思い、箱を開けてみた。今の PC にはフロッピー・ドライブが無いので、CD-ROM に入っていれば良いなと思いつつ見ると、CD-ROM であった。2007年7月12日に、この Fortran PowerStation 4.0 を家庭の PC (Windows Xp) にインストールした。

 私は、1996年に Fortran PowerStation 4.0 を購入してからも、MS FORTRAN 5.1 を使い続けていた。私の用途(比較的小さいソフトを作る) には、MS FORTRAN 5.1 の方が、慣れている事もあり、便利だった。しかし、2000年を過ぎた頃から、作るソフトで使うデータ量が多くなり、DOS 版のソフトでは対応できなくなってきた。そのために、Fortran PowerStation 4.0 を買っていたのではあるが、会社で業務として使うのだから、会社のお金で Windows 用のコンパイラを購入して貰った。その頃、マイクロソフト社は Fortran コンパイラから撤退し、DEC 社が Fortran PowerStation 4.0 の後継製品を販売、更に DEC 社が Compaq 社に吸収され、Compaq Visual Fortran となっていた。よって、会社のお金で購入したのは Compaq Visual Fortran であり、現在もそれを会社で使っている。つまり、Fortran PowerStation 4.0 は、私が自費で購入したにも関わらず、殆ど使われる機会の無かったソフトである。

 今回インストールした Fortran PowerStation 4.0 を動かしていると、1996年当時の事を思い出して来た。Console application として作ったプログラムを DOS プロンプトのウィンドウ内で動かすが、DOS プロンプトにはスクロール機能がなく、がっかりしたものだった。現在の Windows Xp のコマンド・プロンプトには、スクロール機能も搭載されており、昔の DOD プロンプトより進歩している。Fortran PowerStation 4.0 で作ったテスト・プログラムを実行すると、何十行にも亘る出力の数値が流れて消えて行くが、後でスクロール・バックして見る事ができた。但し、10頁程度しか保存されなかったのは、ちょっと残念。でも、それ以上の量の数値は、ファイル出力するから問題ではない。これで、いつでも、簡単なソフトを作る事が出来るようになった。
by utashima | 2007-07-13 23:39 | パソコン | Trackback | Comments(8)

JPL に滞在した20年前の日記を読み返した(2)

 JPL においては、完成して1年も経っていない Building 301 の地下1階に、ブースで仕切られた1区画を貰った。机二つと書架1つがある3~4畳程度の広さである。仕切りの高さは、160cm程度。当初は、計算機の端末は、この区画には設置されていなかった。日本の大部屋と違い、とても集中できる環境であった。なお、追突事故のために受ける事ができなかった路上試験であるが、1回目は失敗し、11月18日の2回目の試験で90点の合格だった。この頃は、新しい中古車は入手できておらず、相手の保険会社の支払いのレンタカーを使っていた。

 1986年11月初め~1987年1月末の3ヶ月間は、JPL の軌道決定や軌道制御の関係のシステムを調査し、旧NASDA のシステムとの比較レポートを作成し、JPL に提出した。JPL のシステムの調査に際しては、英語の勉強も兼ねて色々な人のオフィスを訪ねて、文献を貰った。訪れた人の中に、1970年代にソニーの東京本社に勤務していた研究者もいた。私が帰国してからも、貰った資料の改訂版を送ってくれたりした。深宇宙探査関係では、バイキング・ミッション(火星探査)とガリレオ・ミッション(木星探査)のマヌーバ関係の資料を貰って調査した。ガリレオ・ミッションでは、打上げ時に、全てのソフトウェアの作成が完了してはいない、ということを聞いて驚いた。木星到着までに何年も掛かるので、打ち上げてから作るものもあるらしい。

 11月24日に、借家のオーナー夫妻の支援で購入した Honda Accord LX が届いた。日本ではホンダのビガー(Accord の姉妹車)を乗っていたので、Accord が良い車だという事は知っていたが、この車に関しては、オイル漏れで苦労させられた。アメリカの整備員の質が悪かったのかも知れない。毎週、オイル・ゲージで残量を計り、減り過ぎるのを見つけては、整備工場に持って行っていた。

 12月になると、日本の静止気象衛星 GMS-4 のCompatibility Test が JPL で行なわれ、私も時々顔を出した。私は、GMS シリーズの1号機、2号機、3号機の地上システムの軌道姿勢制御系を担当していた。1月末の日曜日に、宇宙研のハレー彗星探査機 MS-T5 のマヌーバが行なわれた。私も JPL に出勤して、DSN で受信した 3 way doppler のデータを見た。ランダム変動は 0.01 Hz 程度であった。視線速度誤差では 1mm/s 以下である。マヌーバ終了間際に姿勢がずれてロックオフしたようだった。

 私と同じフロアに、CNES から火星ミッションの関係で来ている研究者がいた。彼は、既にCNES と電子メールの交換をしていた。一方、当時の私の旧NASDA との連絡手段は、郵便だけであった。

 下に、JPL のほぼ全体図を Google Map で示した。ほぼ中央の大きな建物が Bldg 301、その左上の青マークが、本館または管理棟とでも言うべき建物で、ここの最上階辺りに JPL 所長の部屋があった。一度だけ、その部屋を訪れた事があったが、何のために行ったのかは覚えていない。青線は、Free Way 210 を降りて、Oak Grove Dr. に入ってから Bldg 301 までのルート。なお、車は、左の駐車場に入れる。この駐車場がいつも混んでいて困ったものだった。
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 (その3) に続く。
by utashima | 2007-07-11 21:30 | イベント | Trackback | Comments(0)

JPL に滞在した20年前の日記を読み返した(1)

 書斎の整理を少しずつ行なっている。手書きの日記の確認をしていると、ジェット推進研究所 (JPL) に滞在した 1986年10月から 1987年10月までの 1年間の日記が別冊になっており、懐かしくなって読み返した。

 ロサンゼルスに到着したのは、1986年10月25日。私、家内、5歳の長男、1歳の次男の4人で出かけた。住む家と車は、前任者のものを引き継ぐ事ができ、大いに助かった。住む家は、パサデナ市の東隣の Arcadia 市にある。ロサンゼルス国際空港に到着した時、NASDA のロサンゼルス駐在員事務所の所長と、住む家のオーナー夫妻(タイ人)が出迎えてくれた。オーナー夫妻は、私たちをタイ料理店に案内してくれ、Arcadia の家まで送り届けてくれた。ロサンゼルス駐在員事務所の所長には、日本を出発する前から色々とお世話になっていた。特に、ロサンゼルスに到着する日から、自動車保険が有効になるように、現地の日系の保険会社(神谷保険)に話を付けて頂いていた。これが、とても役に立つ事になる。

 日本を出る前に、私と家内は国際運転免許証を取得していた。しかし、ロサンゼルスでの生活において、身分証明書として現地の運転免許証は取得しておいた方が良いと、前任者から伺っていたので、すぐに Department of Motor Vehicle (DMV) に行き、筆記試験を受けた。試験場には、数カ国語の試験問題が用意されているが、その時は、数ヶ月前の中曽根総理大臣の失言(米国の黒人は、知能指数がどうのこうのというもの)の影響で、日本語の試験問題は試験場から消えていた。しかし、日本にいる時に、英語の試験問題で練習していたので大丈夫だった。筆記試験に受かると、電話で試験日を予約して、自分の車を試験会場に持ち込んで、路上試験を受ける事になる。11月3日に路上試験を受けるために、Arcadia の自宅から Pasadena の DMV に、自分の車で向かった。半分ほど進んだ所に競馬場があるが、その近くで一時停止していた数台の車の後ろに付けて停まっていた。そして、運転席上のバックミラーを見ると、かなりなスピードで接近してくる車がある。ぶつけられると思った。ハンドルをしっかり握り、腰を低くして、衝突に備えた。かなりの衝撃を受けた。エンジンはかからず、助手席のドアは開かなくなっていた。こんな大きな事故は、初めてであった。私は暫くボーとしていた。幸いな事に、加害者は良い人だったようで、数十メートル先にある公衆電話から警察を呼んでくれた。その後、私は、自分の車に乗ったまま、レッカー車に引かれて自宅に戻った。

 私は、特に負傷した形跡はなかったが、何も考えられない状態であった。自宅の裏にあるガレージに着く前に表の庭の前を通ったが、その時、家内が外にいて、こちらを見ていた。この時が、今までの私の人生で、最も不安な時であったと思う。もう少し事故の被害が大きいと、海外研修がそこで終わるだけでなく、私の人生も終わっていたかも知れない。この事故の後処理は、先に書いた神谷保険が適切に対処してくれ、本当に助かった。事故の後、近所の日本人の診療所でレントゲン検査などをして貰い、問題ない事を確認した。車は修理不能と判り、加害者側の保険会社から、同等の車を買う費用+病院の費用+慰謝料を貰った。新しい中古車は、オーナー夫妻の支援で得る事ができた。Honda の Accord である。この事故の後、信号などで停まる度に、後ろが気になって仕方なかった。この後ろの恐怖から開放されるまで、数ヶ月掛かった。

 以下に、Google Map で、住んだ家、追突事故現場、DMV、JPL の位置を示した。青マークが付いている所がそれらである。最右の青マークが住んだ家、最左が JPL である。図をクリックすると、もっと良く見える。
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 (その2)に続く。
by utashima | 2007-07-09 00:20 | イベント | Trackback | Comments(0)

年金情報の確認をほぼ完了

 6月初めから行なっていた私たち夫婦の年金情報の確認作業をほぼ終えた。「ほぼ」の意味は、最後に記す。

 このブログの『年金情報の確認』という記事で、私が年金情報の確認作業を開始した事を述べた。私の年金情報は、すぐに確認でき、問題なかった。家内のそれは、2つの問題があった。一つは、家内の名前の姓が、私の姓とカタカナ表記で異なっていた事。もう一つは、家内の結婚前の農林共済年金の情報が、社会保険庁のHPで見る事ができなかった事。前者は、土浦社会保険事務所に名前の修正を郵便で依頼し、すぐに対応して貰った。しかし、社会保険庁のHPのデータは中々修正されなかった。後者は、農林年金共済組合に郵便で確認申請を行ない、確かに保険料を支払っていた事を証明する資料が送られて来た。

 以上が、2007年7月5日までの状況であった。7月6日に社会保険庁のHPにアクセスしてみると、家内の名前が、漢字表記に変わっていた。そして、農林共済(現在は厚生年金となっている)の加入期間もこのHPで見る事ができた。やっと統合された。なお、私の名前は、相変わらずカタカナ表記ではあったが。

 さて、タイトルに、「ほぼ」と書いた理由は、1つだけ気になっている事があり、それが未確認であるからである。それは、家内が学生時代に国民年金の保険料を納めていたかどうかの確認である。家内及び家内の両親とも、この件について全く記憶していない。年金手帳や領収書などの資料もない。これらの状況から、家内は学生時代に国民年金に加入していなかった可能性が極めて高いと言える。現在、社会保険庁は、色々と大変な時期なので、当初は問い合わす事はせず、国民年金には加入していなかったと考える事にしていた。しかし、気になるので、社会保険庁のデータベースで、家内の学生時代の名前と住所に一致するものがあるかどうかを検索して貰うだけならば、大きな負担にはならないだろうと考えて、土浦社会保険事務所に郵便を出した。すると、データベース検索の依頼用紙が送られてきたので、記入して返送した。この結果が得られれば、完了となる。
by utashima | 2007-07-06 23:56 | 最近考えている事 | Trackback | Comments(0)

Suica カードで小田急バスに初乗り

 2007年7月3日に国立天文台に出張した。中央線の武蔵境から小田急バス(境91路線)に乗る。4月18日に国立天文台に出かけた時の記事に書いたが、その時、Suica/Pasmo が利用できるのは 2008年度からとバス停に貼紙があった。今回もその貼紙を見た。行きは 210円を用意して乗った。帰りも 210円を用意していたが、バスの昇降口の横に、Pasmo/Suica を利用できるとの表示が付いていた。早速 Suica カードの入った財布を取り出してバスに乗った。

 行きに乗ったバスの昇降口の横に、その表示があったかどうか、確認していないので、もしかしたら、行きも Suica カードを使えたのかも知れない。小田急バスのこのサイトを見ると、6月1日から境91路線にもPasmo/Suica を導入したと書かれている。もし、行きのバスは Suica を使えなかったとしたら、境91路線のバス全てには、まだ装置の搭載が済んでいないのかも知れない。

 Suica カードで自動的に運賃が引き落とされると、正しく引かれているかと、ちょっと心配になる。JR 東日本のホームページで、Suica の利用履歴を知る事ができると、便利だと思い、調べてみた。ビューカードセンターにも電話して聞いたが、出来ない事が判った。現時点では、それを可能にする計画はないとの事。仕方ないので、先ほど、ひたち野うしく駅に行き、自動券売機で利用履歴を印刷してきた。正しく引かれている事を確認できた。ユーザーとしては、ネットでも確認できるようにして欲しい。
by utashima | 2007-07-04 11:55 | 最近考えている事 | Trackback | Comments(0)