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『帝国の昭和(日本の歴史23)』(有馬 学著)の第4章

第四章 「非常時」の表と裏

 1930年3月26日、関東大震災からの復興が成り、天皇臨席のもとで、帝都復興完成式典が挙行された。この頃から「大東京」という呼び方が定着する。行政も1932年10月に周辺5郡を市域に編入してから大東京という呼称を使うようになる。この合併で、東京市の面積は6倍になった。この時、品川、世田谷、渋谷、杉並、豊島、葛飾、江戸川などが東京市に編入された。これらの地域の人口は、都心からの移住者や地方からの転入者で急増。これらの人々を新宿や渋谷などのターミナルに運ぶ私鉄は、1930年代には今日のものが全て揃っていた。

 1932年3月1日、満州国建国宣言が発表された。当時の犬養内閣は、現状を追認するが直ちに満州国の正式承認はしないという方針だった。五・一五事件後に成立した斎藤内閣は、満州国承認に向けて舵を切った。日本政府は、リットン調査団の報告書提出以前に満州国を承認し、1932年9月15日、首都・新京(長春)で日満議定書が調印された。議定書の本文は僅か二か条から成るだけであるが、それ以前に関東軍司令官と満州国執政・国務総理との間で交わされた往復文書が付属文書として効力が確認されている。溥儀から関東軍司令官に宛てた書簡においては、満州国は国防及び治安維持を日本に委託する事、国防上必要な限り、鉄道・港湾などの管理新設を日本に委託する事、満州国参議その他官吏に関東軍司令官の推薦により日本人を登用する事などが書かれていた。勿論、日本側が作成して溥儀に署名させたもの。

 リットン調査団は、1932年2月末から6月初めにかけて、満州、日本、中国で調査を行ない、報告書を作成した。報告書の要点は、満州における中国政府の主権を確認しつつ、実質的に日本の地位を承認しようとするものだった。この報告書に基づき、12月から国際連盟で審議された。焦点は満州国の否認問題だった。審議中の1933年1月に関東軍は山海関を占領し熱河省に侵攻するなどの行動をして、連盟側を強く刺激した。2月24日の国際連盟総会でリットン案よりさらに厳しい勧告案が賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)で採択された。日本は翌3月27日に国際連盟に正式に脱退通告を行なった。帰国した松岡洋右は、国民に凱旋将軍のように迎えられた。

 斎藤内閣と陸軍とは、満州国承認と国際連盟脱退については、距離はそれほどなかった。問題は内政であった。陸軍陸相は高橋是清蔵相の財政論に全く対抗できず、齋藤首相の老獪さにしてやられた。荒木の陸軍内における威信は低下した。この事は、後に皇道派と統制派と称される陸軍内の派閥対立を顕在化させる一因となる。斎藤内閣は2年を超える長命内閣となったが、帝人事件と呼ばれる疑獄事件により、1934年7月に総辞職した。後継総理大臣として海軍の岡田啓介に大命が下った。

 斎藤・岡田内閣を現状維持的として批判する最大のグループが、陸軍内の「革新」を主張する勢力だった。岡田内閣期には、「革新」を主張する勢力内の対立(統制派と皇道派)が深刻な段階に入る。1934年3月に後に統制派の総帥と目される永田鉄山少将が陸軍省軍務局長に就任。陸軍首脳間で人事問題その他を巡って、荒木・真崎(皇道派)と林・永田(統制派)の対立が激しくなった。

 陸軍における深刻な政治抗争が最初に表面化したのは、1934年の11月事件である。陸軍士官学校中隊長だった統制派の辻政信が、学生をスパイに使って調査し、「クーデター計画」が発覚したとして陸大学生の村中孝次、一等主計の磯部浅一らを処分したもの。クーデター計画は立証されず、逆に村中、磯部らが辻らを告訴する事態に。

 1935年になって、天皇機関説事件が発生。天皇機関説は、美濃部達吉の憲法解釈であり、国家法人説と呼ぶのが正当であり、天皇機関説は俗称である。天皇を「機関」とするとは何事かという、馬鹿げた感情が作用した。在郷軍人会や民間右翼団体がこの問題を増幅し、陸軍皇道派が利用した。岡田首相は当初の立場を変更し、議会で機関説反対を言明。内務省は、美濃部の主著を発売禁止とした。しかし、皇道派の真崎は7月16日に教育総監を更迭される。1935年8月、永田軍務局長が陸軍省の自室で白昼斬殺される事件が起きた。犯人は皇道派の相沢三郎中佐。真崎更迭に対する皇道派の反撃と考えられる。真崎更迭から相沢事件と続く混乱は、二・二六事件に繋がっていく。

 話は少しさかのぼるが、国際連盟でリットン報告書をめぐる議論が行なわれている中、関東軍は天皇の憂慮にも拘らず熱河省侵攻を開始した。1933年5月下旬には日本軍は北京に迫る勢いだった。国民政府は、停戦を求めざるを得なかった。5月31日に停戦協定が調印された。協定内容は日本側の案文を押しつけたもの。この協定後、満州事変への世界の関心は急速に薄れた。1933年9月に広田弘毅が外相に就任し、重光次官とともに広田・重光外交を進めた。重光らの方針は、満州国は独立国として発展せしめ、中国本土については干渉せず中国政府に任せると言うものだった。この方向で満州問題は解決するという見通しだった。中国側にも、満州国の承認に対して、対日妥協の姿勢が見えて来た。日本と中国は、それぞれが三原則を相手に提示し交渉したが、その間に関東軍は華北分離工作を進行させており、三原則交渉はまとまらなかった。中国側の三原則は、①日中相互の独立尊重、②真正な友誼の維持、③両国間の事件は平和的外交手段に拠る事、であり、これを日本が承認して以前の休戦協定を破棄すれば、中国側は満州国の独立を承認する態度を明らかにしていた。この時の交渉が、満州事変後の関係改善の最後のチャンスであったと言えるかも知れない。

 1930年代半ばには陸軍内部の政治抗争は抜き差しならぬ敵対的なものとなっていた。皇道派の青年将校グループには直接行動への意志が高まっていた。1936年2月26日未明、青年将校に率いられた、重機関銃・軽機関銃・小銃で武装した部隊が、降り積もった雪の中を出動した。目標は、鈴木貫太郎侍従長官邸、首相官邸、警視庁、陸相官邸、内務大臣私邸、教育総監私邸、大蔵大臣高橋是清私邸、湯河原で静養中の前内大臣牧野伸顕である。内大臣、高橋大蔵大臣、教育総監が死亡、鈴木侍従長は重傷。首相官邸では、容貌が似ていた岡田首相の妹婿松尾伝蔵大佐が誤認されて殺害された。首相は女中部屋に隠れていて、翌日まで死亡と信じられていた。岡田首相は弔問客に紛れて脱出に成功した。1480余名の決起部隊は、一帯を4日間にわたって制圧した。荒木・真崎らによって暫定内閣成立の上部工作が行なわれた。しかし、速やかに反乱を鎮圧せよとの昭和天皇の意志が事態を決定づけた。処罰は厳しく、17名が死刑となった。

[統制派と皇道派](ウィキペディアより)
 統制派は、陸軍内にかつて存在した派閥。当初は暴力革命的手段による国家革新を企図していたが、あくまでも国家改造のため直接行動も辞さなかった皇道派青年将校と異なり、その態度を一変し、陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現するという合法的な形で、列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指した。

 天皇親政の強化や財閥規制など政治への深い不満・関与を旗印に結成され陸大出身者がほとんどいなかった皇道派に対し、陸大出身者が主体で軍内の規律統制の尊重という意味から統制派と呼ばれる。統制派は、皇道派のような明確なリーダーや指導者は居らず、初期の中心人物と目される永田鉄山も軍内での派閥行動には否定的な考えをもっており、「非皇道派=統制派」が実態だとする考え方も存在する。ただ永田亡き後、統制派の中心人物とされた東條英機などの行動や主張が、そのまま統制派の主張とされることが多い。

 皇道派は、二・二六事件に失敗し挫折する。統制派は、革新官僚とも繋がりを持つ軍内の近代派であり、近代的な軍備や産業機構の整備に基づく、総力戦に対応した高度国防国家を構想した。中心人物は永田鉄山、東條英機。

 皇道派は反ソ・反共を掲げ、右派色が強かったのに対して、統制派は南進論と中国への一撃を主張し、英米を敵とし、ソ連との不可侵条約の締結を推進した。

 統制派中心人物の永田鉄山が、皇道派の相沢三郎陸軍中佐に暗殺された(相沢事件)後、皇道派との対立を激化させる。この後、皇道派による二・二六事件が鎮圧されると、皇道派将校は予備役に追いやられた。陸軍内での対立は、統制派の勝利という形で一応の終息をみる。

 その後、統制派は、陸軍内での勢力を急速に拡大し、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍に非協力的な内閣を倒閣するなど政治色を増し、最終的に、永田鉄山の死後に統制派の首領となった東条英機の下で、共産国家に近く全体主義色の強い東條内閣を成立させるに至る。
by utashima | 2013-12-19 21:23 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『帝国の昭和(日本の歴史23)』(有馬 学著)の第3章

第三章 「挙国一致」内閣の時代

 陸軍内部に、満蒙問題に対する中国政策への不満が明確な形を取りつつあった。陸軍内の長州閥人事を打破し満蒙政策を一新する事を目指した政治的な軍人たちを、ここでは陸軍中堅層と呼ぶことにする。この軍人たちの結社の一つが木曜会である。岡村寧次、永田鉄山、東条英機石原莞爾、鈴木貞一、根本博らが中心的メンバーであった。1927年には既に会合を持っていた。彼らは、帝国自存のため、満蒙領有を志向していた。1927年頃から二葉会と呼ばれる会合も持たれ、木曜会と二葉会が合流して、1929年に一夕会(いっせきかい)が結成された。この会のメンバーが間もなく陸軍の要職を占めるようになる。彼らが課長クラス以上になる頃に、満州事変が勃発する。

 満州事変の発端となった1931年9月18日の柳条湖事件(満鉄線爆破)は、石原莞爾や板垣征四郎らの計画的陰謀であった。9月18日夜10時過ぎ、奉天近郊の柳条湖付近で、関東軍は満鉄線を爆破し、これを中国軍の仕業として、中国軍の拠点北大営を攻撃。19日には長春地方、21日には吉林地方を占領した。その際、朝鮮軍司令官(林銑十郎)の独断越境による後方支援があった。

 若槻内閣は不拡大方針を決定するが、陸軍中枢の強硬姿勢に押し切られ、閣議は柳条湖事件以後の関東軍の行動を承認する。また朝鮮軍の独断越境も認め、そのための経費支出を承認した。陸軍中堅層の考えは、満蒙の領有であったが、参謀本部中央の同意を得られず、9月22日に親日政権樹立という方向を打ち出す。これが後の満州国建国に繋がる。

 関東軍は、幣原による国民政府との外交交渉や、英米などの幣原外交支持の動きを牽制しようと、10月8日に錦州爆撃を行なう。錦州には張学良が設けた仮政府があった。国際連盟は10月15日に非加盟国の米国をオブザーバとして招致することを可決し、24日に期限付きの撤兵勧告を採択した。反対は日本だけ。

 日本国内でも、クーデター計画が進行していた。橋本少佐は桜会を結成し、1931年に宇垣陸相をかつぐクーデターを立案、陸軍内部にも賛同者がいた。国家主義者の大川周明と組んだ計画だったが、実行はされず、三月事件として密かに伝えられた。
 橋本ら桜会は満州事変後も新たなクーデターを計画。首相官邸を襲撃して首相や政財界の要人を殺害し、荒木貞夫陸軍中将を首相とする軍部内閣を樹立しようとするもの。これは事前に洩れて、橋本らは憲兵隊に検束された。決行予定が10月だったので十月事件と呼ばれる。橋本らは軽い処分を受けただけだった。若槻内閣は事件を公表しないという閣議決定をした。若槻内閣は、1931年12月11日に総辞職した。

 若槻内閣総辞職の翌日、元老西園寺は政友会総裁の犬養毅を後継総理大臣に推薦した。政友会の単独内閣である。犬養内閣で注目すべきは、大蔵大臣の高橋是清である。高橋は組閣直後に金輸出を再禁止し金兌換も停止した。もう一つ注目すべき事は陸軍大臣に荒木貞夫が就任した事。陸軍中堅層の宿願の実現だった。犬養内閣は翌年の2月に総選挙を実施する。政友会は301名という空前の多数を獲得した。民政党は146名。

 1932年1月末に上海事変(第一次)が起きる。上海で日蓮宗僧侶が殺害される事件がきっかけだが、陸軍の田中隆吉少佐による謀略であった。戦後、田中自身が認めている。上海で戦闘が行なわれている頃、満州では関東軍による「満州国」建国の動きが進んでいた。1932年2月に、関東軍が工作して集めた地方の有力者から成る東北行政委員会が独立を宣言、3月1日に溥儀を執政とする「満州国」の建国が宣言された。建国宣言を急いだのは、国際連盟のリットン調査団が来る前に「建国」の既成事実を作るためだった。

 三月事件、十月事件は未発に終わったが、1932年初めに、血盟団事件と呼ばれるテロ事件が発生。2月9日に井上準之助前蔵相が、3月5日に三井合名理事長の団琢磨が、いずれも拳銃で射殺された。血盟団グループが検挙された後、1932年5月15日、海軍青年将校の三上卓らは首相官邸を襲い、犬養首相を射殺した。

 西園寺は5月22日に海軍大将の斎藤実を総理大臣に奏請した。高橋蔵相と荒木陸相は留任した。不況の克服と陸軍の動向が政局運営の焦点だった。

 満州事変勃発後に、様々なメディアによる報道が国民の熱狂的な支持を創り出していた。報道の中で使われた「生命線」という言葉が最も効果的に機能した。松岡洋右が1931年1月の衆議院本会議の議会演説で使ったのが有名である。この年の流行語になった。

 世界恐慌は1934年に収束するが、世界経済に大きな変化をもたらし、ブロック経済的な傾向が支配的になる。日本は1932年から景気回復に入り、かつてない経済発展を迎えた。高橋是清は、円の為替レート低下を放任、低金利を維持し、財政支出を激増させた。政府支出の膨張は、満州事変費を中心とする軍事費、時局匡救費という名目の不況対策の公共投資であり、日銀引き受けによる赤字国債の発行という新手法が取られた。工業生産の水準は飛躍的に増大した。この時期、軍需産業を足場に、「新興財閥」が急速に成長した。日本産業(日産)、日本窒素肥料、昭和電工、理化学研究所(理研)、中島飛行機などである。

[日産コンツェルン](ウィキペディアより)
 日本の十五大財閥の1つ。鮎川財閥とも呼ばれる。日立鉱山(久原鉱業、日本鉱業、ジャパンエナジー、新日鉱ホールディングスを経て現在のJXホールディングス)を源流として、機械・銅線部門を独立させての日立製作所などを加え、持ち株会社・日本産業のもとにコンツェルン化した戦前の財閥。戦後は、その自動車部門であった日産自動車が日産の名を残す後継企業としては最も大きいため、現在は同社のグループのみを指してを日産グループと呼ぶことが多い。

by utashima | 2013-12-04 19:23 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『帝国の昭和(日本の歴史23)』(有馬 学著)の第2章

第二章 ワシントン体制の変容と日本

 政党内閣時代の国際秩序は、ワシントン体制と呼ばれている。背景には英国に代わって主要なパワーとなった米国の台頭がある。ワシントン体制の根拠は、ワシントン会議(1921~1922年)で調印された諸条約である。ワシントン条約締結の時期は、ソ連は東アジアに積極的な外交を展開する余裕は無く、中国も政治的分裂ために、列強は中国・ソ連の要求を無視できた。しかし、1920年代半ばから、ソ連の積極的な極東外交展開と中国国民党による国内統一の開始(北伐)が密接に結合して(国共合作)、ワシントン体制に変容を迫る事になる。

 1924年の中国国民党第一回全国代表大会は多くの中国共産党員を中央執行委員などに選出し、第一次国共合作が成立した。蒋介石を校長として開学した黄埔軍官学校にも周恩来などの共産党員が政治部などに参加していた。背景に、ソ連とコミンテルンの強力な援助・工作があった。しかし、国民党は一枚岩ではなく、国共合作は永続せず、永い内戦をもたらした。

 1926年7月、蒋介石は国民革命軍総司令に就任し、北伐を宣言する。国民革命軍による武力統一の大事業が開始された。国民革命軍の進撃は反帝国主義の熱気の中で行なわれたため、列強との軋轢を避ける事は困難だった。1927年3月24日、国民革命軍は南京に入城。ここで日本、英国の領事館や米国系大学などに侵入し、略奪・暴行をはたらき死傷者を出した。いわゆる南京事件(1937年の南京事件とは別物)である。この時の日本側は、武力行使を避け隠忍(いんにん)策に徹した。国民革命軍の外国人への暴行は、共産党やソ連顧問の使嗾(しそう:指図してそそのかす)によるものが多かった。そのためもあって、1927年4月12日、蒋介石は上海で反共クーデターを起こす。9月6日には南京を首都と定めて、蒋介石が国民政府主席となった。1928年6月8日に国民革命軍は北京に入城し、北伐は一応の完了を迎えた。7月7日には国民政府は不平等条約の改定を宣言する。米国は7月25日に米中関税条約に調印し、中国の関税自主権を承認、11月3日には国民政府を承認した。英国もこれに追従した。日本は1929年6月に国民政府を承認した。

 北伐が進行していた1927年4月に、政友会総裁の田中義一が組閣した。北伐の進展に対し、田中内閣は1927年6月に第一次山東出兵を実施した。これは上記の南京事件などを念頭に置いた予防策と考えられる。英国、米国も出兵している。田中外交の当初の意図にも拘らず、対中関係を悪化させたのが済南事件であった。1928年4月半ばに国民革命軍は山東省の済南に迫った。田中内閣は4月19日に第二次山東出兵を閣議決定した。主力の熊本第六師団が5月2日に済南に到着。同日に蒋介石も済南に入っている。軍事衝突は翌3日に発生した。発端は商埠地(しょうふち:治外法権を与えず、単に外国人の居住や経済活動を保護する目的で設定された領域)内の日本人家屋に国民革命軍兵士が侵入した事をめぐる発砲事件とされる。どちらが先に発砲したかは日中の言い分が異なる。5月5日に一旦停戦したが、福田師団長は中国側に、関係者の厳罰や軍隊の立ち退き等の強硬な要求を出し、12時間の時間切れを理由に攻撃を再開、一般市民を含む多数の死傷者を出して済南を占領した。占領後の交渉で、田中は蒋介石軍による北伐の速成を期待しており、蒋介石軍に鉄道利用の便宜を図るよう参謀本部に要請していた。しかし、陸軍出先と参謀本部は、蒋介石軍に対し謝罪を含む強硬要求を譲らなかった。一時期英国に向きかけていた中国ナショナリズムの反感が、一気に日本に向かって来るようになった。

 田中内閣は、東三省を治める張作霖及び中国本土の蒋介石と交渉しつつ日本の権益を守るという等距離外交を考えていたが、1928年6月4日の張作霖爆殺事件により、田中外交は崩壊する。爆破そのものは関東軍高級参謀河本大作の独断による事は今日明らかになっている。しかし、全体的には不透明なところもある。張作霖の後継車となった息子の張学良は、国民政府と妥協する。

 田中内閣は1929年7月2日に総辞職する。張作霖爆殺に関し一旦関係者の厳罰方針を上奏していた田中が、6月27日になって「日本の陸軍には犯人はいない事が判明」したので、警備責任者の行政処分に留めると言う上奏を行なったため、天皇から「お前の最初に言った事と違うじゃないか」と叱責され、辞表を奉呈した。しかし、この問題のプロセスは、今日でも詳細にわたっては不明な点が残されている。

 田中内閣の総辞職の後、西園寺は民政党総裁の浜口雄幸を総理大臣に推薦した。1930年1月、金輸出を解禁し、金本位制に復帰した。浜口内閣は、金解禁・緊縮財政・産業合理化を推進した。この時の産業合理化は、企業の合同やカルテルの結成などを通して産業全体の合理化を目指すものであり、競争を排除し、過剰投資を抑制し、販売価格の維持を企てる独占体の形成を目論んだ。自由競争ではもはや難局は乗り切れないという資本主義経済の終末意識があったのではないか。この頃の民政党の政策として、ギルド社会主義の可能性が議論される雰囲気があった。

[ギルド社会主義とは(デジタル大辞泉より)]
 20世紀初め、英国に起こった政治・社会運動。当時の国家や資本主義に反対し、中世のギルドを模して労働組合を基盤につくられた産業の民主主義的連合によって、自治的社会主義を目ざす運動。


 1921~1922年のワシントン会議で海軍主力艦の保有量制限が決まり、次に補助艦の保有量を制限する会議が1930年1月からロンドンで開催された。日本側の要求より幾分少ないトン数であったが、軍令部長の賛成を得ずに、統帥事項である兵力量に関する条約を調印した事に対し、憲法12条に規定された統帥権の干犯であるとの論理が登場した。この事がその後の政治に重大な影響を及ぼした。政党内閣に反対し、幣原外交に反発する勢力のうねりが、1930年代の日本政治の一翼をなしていく。

 1930年11月14日に浜口首相が、東京駅で右翼青年に拳銃で撃たれ、重傷を負った。翌年4月に内閣は総辞職、若槻礼次郎が民政党総裁に就任し、第二次若槻内閣を組織した。浜口は8月に死去。第二次若槻内閣は、殆どの閣僚を留任させた。幣原外相、井上蔵相も留任し、英米協調・金本位制・緊縮財政堅持を目指した。
by utashima | 2013-11-28 21:27 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『帝国の昭和(日本の歴史23)』(有馬 学著)の第1章

第一章 普通選挙と政党内閣

 1924年5月の総選挙で護憲三派(憲政会・政友会・革新倶楽部)が勝利し、憲政会の加藤高明が組織した護憲三派内閣から、1932年の五・一五事件で犬養毅内閣(政友会)が総辞職するまでの時期は、政党内閣時代と呼ばれている。その間の8年という期間は短く、政党内閣制は確立しなかったと表現するのが一般的だろう。政党内閣制とは議院内閣制であり、政党内閣制の確立には、内閣総理大臣を議会が選出するという憲法上の規定が必要であった。しかし、明治憲法には、そのような規定はなく、元老という超憲法的存在が総理大臣を天皇に奏請していた。更に、奏請されるのは政党ではなく、個人(首相)に対してであった。

 1922年に結成された日本共産党は1924年2月には解党を決定したが、1926年12月に秘密裏に再建された。共産党とは別に、合法政党としての無産政党も幾つか結成された。労働農民党(左派)、社会民衆党(右派)、日本労農党(中間派)である。普選になって三回の当選者数は無産各派を合わせても、それぞれ一桁であった。国民大衆の世論は陸軍の支持に向かった。

 1925年3月に成立した普通選挙法の下で、1928年2月20日に初めての選挙が行なわれた。前年の1927年6月に憲政会と政友本党が合同して立憲民政党が成立、政友会と民政党の二大政党制が誕生する。初の普通選挙の1か月後の3月15日に日本共産党の一斉検挙(三・一五事件)があり、5月3日には中国山東省の済南で日中両軍の衝突(済南事件)、6月4日には関東軍による張作霖の爆殺と、昭和史の激動を象徴する諸事件が起こった。

 この頃の簡単な年表を以下に記す。

1922年(大正11年) 7月 :日本共産党の結成
1924年(大正13年) 2月 :日本共産党の解党を決定
1924年(大正13年) 6月11日:憲政会総裁の加藤高明が護憲三派の連立内閣(第一次加藤内閣)を組織。
1925年(大正14年) 3月 :加藤高明内閣の下で、普通選挙法が成立。
1925年(大正14年) 8月 2日:第二次加藤内閣成立。
1926年(大正15年) 1月28日:加藤高明首相が肺炎がもとで急死。
1926年(大正15年) 1月30日:若槻(礼次郎)内閣が成立。
1926年(大正15年) 3月 5日:労働農民党が結成された。左派無産政党となる。
1926年(大正15年)12月 5日:社会民衆党が結党式を挙げた。右派。
1926年(大正15年)12月 9日:日本労農党が結成された。中間派。
1926年(大正15年)12月 4日:日本共産党の再建(山形県五色温泉で秘密裏に)
1927年(昭和 2年) 4月20日:政友会総裁の田中義一に組閣の大命が降下した。
1927年(昭和 2年) 6月 1日:憲政会と政友本党が合同し、立憲民政党を創立。総裁は浜口雄幸。
1928年(昭和 3年) 2月20日:普通選挙法下での初の選挙が行なわれた。
             3月15日:日本共産党の一斉検挙(三・一五事件)
             5月 3日:中国山東省の済南で日中両軍の衝突(済南事件)
             6月 4日:関東軍による張作霖の爆殺
by utashima | 2013-11-17 10:39 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『政党政治と天皇(日本の歴史22)』(伊藤之雄著)の第8章

第8章 世界恐慌と立憲君主制の危機

 政友会の田中義一内閣が張作霖爆殺事件の処理で昭和天皇から強い不信を買って倒れ、1929年7月2日、野党第一党の民政党総裁の浜口雄幸が組閣した。昭和天皇は浜口内閣の閣僚の顔ぶれに満足した。浜口内閣は金解禁により為替相場を安定させ輸出を増進させて不況を克服する政策を進めた。当時、主要国は金解禁により金為替本位制に復帰していた。国民は浜口内閣の政策を評価し、1930年2月20日の総選挙では民政党は大きく議席を伸ばし、衆議院の過半数を確保した。

 第一次世界大戦後のワシントン海軍軍縮条約で、主力艦(戦艦・空母など)の総保有トン数や備砲などの制限を行なったが、制限外であった補助艦(基準排水量1万トン以下)の建艦競争は激しくなった。そこで補助艦の制限のためのロンドン会議が1930年1月21日から行なわれ、補助艦総量は米国の69.75%、その中の大型巡洋艦は米国の60.2%、潜水艦は米英と同じ5万2700トン(この時日本は7万8500トンを保有)という協定案が出され、日本全権はそれに妥協する事にし、3月14日に浜口内閣に請訓(本国政府に指示を求める事)した。

 浜口首相ら内閣側や元老西園寺ら宮中側近側は条約を成立させようとの立場だった。加藤軍令部長らは請訓に反対。昭和天皇は浜口首相に条約を成立させるようにと直接意思を表明していた。この天皇の行動は英国の立憲君主制の慣例の枠内にある。

 3月31日、回訓案についての閣議を翌日に控え、加藤軍令部長は上奏を打診したが、鈴木貫太郎侍従長から天皇多用という事で翌日にという事になった。しかし、翌4月1日も加藤軍令部長の上奏要請は、天皇の「日程既に一杯」という名目で阻止された。鈴木侍従長一人の判断だったらしい。昭和天皇は鈴木の上奏阻止に同調し、翌日に拝謁する事を指示したらしい。しかし、4月1日に閣議が予定通り開かれ、全権の請訓とほぼ同内容の回訓案が決定した。その日の内に浜口首相から天皇に上奏され、裁可を受けてロンドンに電送された。

 ロンドン海軍軍縮条約は4月22日に成立。軍令部長に上奏させないという鈴木侍従長の行動は、天皇の同意を得ているとは言え、異例で危険なものであった。上奏阻止の噂は、阻止に関わった人物は十分に把握されないまま、政界・海軍・陸軍の中枢部や国粋主義者の間に広まり、8月頃には、鈴木侍従長一人の判断だったという真相も広まった。

 上奏阻止事件後の1930年4月から、「軍部」という用語が急に使われるようになる。それまで天皇や政党内閣などにまがりなりにも統制されてきた陸・海軍が、軍部として自立した行動を取り始めた。昭和天皇が政治的に力量がなく宮中側近に影響されていて軍部にとって頼りにならないという、天皇に対する不信を背景としていた。鈴木侍従長の行動は、責任感と天皇への誠意から出たものであるが、宮中側近への不信感を増し、天皇の国家統治の威信を著しく傷つけた。これは軍縮条約の成立を一時的に促進したが、あまりに大きな代償であった。

 1929年秋、株式投資に熱に浮かれていた米国は、突然恐慌に見舞われた。それは急速に広がり、世界恐慌となった。日本は金解禁の影響も合わさり、1930年代から昭和恐慌となった。

 日本による朝鮮と台湾の植民地支配は、1935年頃までは、英国のそれと比べて特異なものではなかった。1937年7月に日中戦争が全面化し、更に太平洋戦争に拡大して日本に余裕がなくなると、植民地支配にも異様さ(台湾・朝鮮のキリスト教系私立学校への神社参拝の強制、朝鮮人などの強制連行や創氏改名など)が増大した。

 1931年5月頃、関東軍参謀の石原莞爾中佐は、関東軍が独断で満州を占領し、中国本土と切り離して統治する計画を考えていた。
 1931年9月18日夜、関東軍の一部は奉天の柳条湖の満鉄線上で爆薬を破裂させ、中国軍(張作霖を継いだ張学良の部隊)を攻撃。満州事変の発端となる柳条湖事件である。彼らは、中国側が日本側を攻撃したとの偽の報告を行なった。関東軍司令官は、石原中佐の意見を入れ、全関東軍に出動を命じ中国軍を攻撃させた。朝鮮に駐屯する日本軍である朝鮮軍の応援も依頼した。日本国外にいる部隊は、司令官に緊急時の権限が与えられており、中国軍を攻撃できた。しかし、植民地の朝鮮は日本国内であり、朝鮮軍が出兵する事は国外出兵になる。国外出兵には、奉勅命令(天皇の許可)と閣議の経費支出の承認が必要だった。朝鮮軍の司令官林中将は、奉勅命令がすぐに下されるとの見込みで行動を起こした。

 9月19日の閣議では、幣原外相が事件は関東軍の謀略であるとの意見を述べる等、関東軍への増援経費を認める空気は無かった。しかし、朝鮮軍は21日午後、列車で国境の鴨緑江を越え、関東軍の指揮下に入った。これは、天皇の統帥権をないがしろにするだけでなく、関東軍・朝鮮軍が軍中央の指揮下に服さないという点で、大変な事態であった。昭和天皇は満州事変の拡大を防ぎたいと考えていたが、積極的な介入を差し控えた。若槻首相は、陸軍に宥和的であり、22日の閣議では朝鮮軍の満州出動を閣僚全員が承認し、必要な経費支出を認めた。その後天皇の許可も得て、朝鮮から満州への増援問題は事後承認として解決された。浜口雄幸が狙撃されず(1930年11月14日に東京駅で狙撃され重傷を負った)、柳条湖事件の時も首相であったなら、別の結果になった可能性がある。

 若槻内閣は朝鮮軍の独断越境を事後承諾したため、関東軍は勢いづき、次々に要地を占領した。国際連盟も日本の不拡大方針に疑いを持ち、1931年10月24日の理事会で、日本は直ちに撤兵を開始し11月16日までに管理すべきとの決議案が13対1の評決となった。反対は日本だけ。若槻内閣は事態のコントロール能力を失っていった。

 陸軍の桜会グループの青壮年将校たちは、クーデター計画を立てた。10月24日に若槻首相以下の閣僚を暗殺し、軍部中心の内閣を作ろうというもの。これは発覚し、クーデターは未遂に終わったが、首謀者たちの処分は軽いものであった。その頃、関東軍は、北満州のチチハルへ進軍し占領した。北満州はソ連の勢力圏だった。

 日本国民は浜口内閣の下で、金本位制への復帰と緊縮財政で産業を合理化すれば、経済は好転すると信じて、不況を耐えてきたが、デフレ状況はより厳しくなった。英国は1931年9月に金本位制から離脱。満州の戦火が拡大する中、日本国民は若槻内閣を見離し始めた。英国では、1931年8月に挙国一致内閣(第三次マクドナルド内閣)を成立させていた。日本でも連立内閣が模索されたが進展せず、若槻首相は内閣を投げ出し、1931年12月11日に総辞職。後任は犬養毅を首相とする政友会の単独内閣となり、12月13日に発足した。昭和天皇や元老西園寺は陸軍を抑制する積極的な行動を取らず、陸軍の要請で1932年1月には関東軍の軍事行動に対し、天皇がその「忠烈を嘉す」と称賛する勅語が出された。

 1932年1月18日、関東軍は中国人に上海の日本人僧侶ら5名を襲わせ、上海事変を開始した。2月5日には関東軍はハルビンを占領し満州の主な都市を支配下に置いた。そして3月1日に満州国の建国宣言を行なわせた。関東軍は清朝最後の皇帝溥儀を天津から連れ出して軟禁していた。犬養内閣は金本位制を離脱したので、金の保有量に規制されずに通貨を発行できるようになった。高橋是清蔵相は赤字国債を多量に発行して景気を回復させた。

 1932年5月15日夕方5時半頃、古賀清志中尉ら海軍青年将校6名と陸軍士官学校生12名と血盟団の残党1名は、首相官邸・内大臣官邸・政友会本部・三菱銀行を襲撃、犬養首相を射殺した。五・一五事件である。5月23日、穏健な海軍軍人である斎藤実大将が後継首相に推薦され、26日に斎藤内閣が発足。各政党から入閣した挙国一致内閣であった。
by utashima | 2013-10-31 22:16 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『政党政治と天皇(日本の歴史22)』(伊藤之雄著)の第7章

第7章 北伐と御大礼

 1926年(大正15年)7月、孫文の国民党を受け継いだ蒋介石は、国民革命軍を率いて広東省より北伐(北方の軍閥政権を倒すための軍事活動)に出発した。翌3月には上海と南京を占領。1月には国民革命軍は漢口・九江の英国租界を実力で回収した。英国は、日米に派兵を求めたが、内政不干渉を方針とする幣原外相(若槻内閣)は米国と共に出兵を拒否。4月に、蒋介石は反共クーデターを起こし南京に国民政府を樹立した。既に1月に、国民党左派と中国共産党は武漢に国民政府を移しており、中国に二つの国民政府が並存する形になった。田中義一大将を総裁に戴く衆議院第二党の政友会は、内政不干渉方針の幣原外交を激しく攻撃した。

 1926年頃、日本国内では金融不安が進行していた。第一次世界大戦後の需要減退による不況と、1923年の関東大震災による日本経済への打撃が要因であった。経営不安のうわさのある銀行の窓口に人々が殺到し、取り付け騒ぎが発生した。植民地台湾の台湾銀行の経営も怪しくなった。若槻内閣は台湾銀行救済の緊急勅令案を提出したが枢密院に否決され、1927年4月17日に総辞職した。

 4月17日、即位して4か月の昭和天皇裕仁は、牧野内大臣と元老西園寺が推薦した田中義一に後継首相として組閣を命じた。20日、田中内閣が発足。第一党の若槻内閣が倒れると、第二党の党首が組閣すると言うルールが展開し始めた。田中内閣は、陸軍や国粋主義者からは幣原外交の転換として期待された。田中内閣は旧来の政友会幹部(列強との協調路線を重視)とは異質で、中国政策の刷新と反共を唱える人物が中核となっていた。

 1927年5月28日、蒋介石の国民革命軍が山東地方に迫ると、田中内閣は在留日本人保護を理由に、派兵を声明した。第一次山東出兵である。中国各地から激しい排日の声が上がった。国民党右派の蒋介石が一時失脚して北伐が一旦中止されると、田中内閣は派遣軍を撤兵した。幣原前外相は満州権益を守るために、中国本土政権との妥協を探っていたが、田中内閣は満蒙を中国本土より分離する方向性を示した。

 1928年2月に蒋介石が復帰し北伐を再開すると、4月19日、田中内閣は第二次山東出兵を決定、約5000名を派遣した。5月3日、済南市で日本軍と北伐軍が衝突した。内閣は第三次山東出兵を決定し北伐軍を攻撃、約5000名の死傷者を出す打撃を与えた。これを「済南(さいなん)事件」という。排日気運は更に強まった。しかし北伐軍の勢いは衰えず、北京の張作霖は満州に引き揚げて体制の立て直しを図る。6月3日に北京を発った張は、4日朝、奉天を目前に列車もろとも爆破され、2日後に死亡した。張の爆殺を企てたのは、関東軍の高級参謀の河本大作大佐、実行したのは独立守備隊の東宮鉄男大尉らであった。東宮は爆破を北伐軍の仕業に見せかけようとしたが、真相は日本側だけでなく張作霖の息子の張学良側にも知られた。

 満州を除き中国を統一した国民政府は、1928年7月に日本に通商条約の破棄を一方的に通告。米国は7月25日に国民政府を承認し、関税自主権を認めた。英国も12月20日に同様の姿勢を取った。張学良は12月29日に国民政府に合流した。

 張作霖爆殺の約1年後、田中義一首相は昭和天皇に曖昧な報告をしたため、天皇は田中首相に不信感を示し、内閣は1929年7月に倒れた。田中内閣は、山東出兵などの強硬外交や、三・一五事件(1928年3月15日、左翼労働組合やプロレタリア文化団体等の活動家約1600名を検挙)及び治安維持法改正(国家変革を目的とした結社行為の最高罰則を懲役10年から死刑に変更、また共産党員でなくても本人の意図に拘らず共産党に協力したと判断されると2年以上の刑を科される)など共産党や労働運動弾圧政策が目立ち、景気は回復せず、国民の支持を拡大できなかった。

 1926年12月25日、大正天皇が47歳で没し、摂政を務めていた25歳の裕仁が即位した。1928年5月、田中首相が天皇に拝謁し、山東への出兵費の予算が否決されるか、内閣不信任案が可決されたら、衆議院を解散したいと、許可を求めた。天皇は、予算否決の場合は解散許可を与えたが、内閣不信任案可決の場合は許可を与えなかった。英国においても首相が民意に反して下院を解散しようとした場合は、国王は解散を拒否できると考えられていた。昭和天皇の政治関与への意気込みが分かる。

昭和天皇には三人の弟がいた。秩父宮親王(1歳下)、高松宮親王(4歳下)、崇仁(たかひと)親王(後の三笠宮、14歳下)である。秩父宮は、「山の宮」「スポーツの宮」と呼称され、天皇家の大衆化という点で天皇を補っていた。秩父宮は国粋主義者や保守主義者の間で昭和天皇をしのぐ人気があった。秩父宮の存在は、昭和天皇が無意識のうちに無理をする影響を及ぼした可能性がある。昭和天皇が秩父宮をどのように意識していたかを知る原史料は、今の所発見されていない。
by utashima | 2013-10-19 16:41 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『政党政治と天皇(日本の歴史22)』(伊藤之雄著)の第6章

第6章 護憲三派内閣

 1923年12月29日、第二次山本権兵衛内閣が「虎の門事件」(摂政宮狙撃事件)の責任を取って辞表を提出。元老の西園寺公望が中心となって、清浦奎吾枢密院議長を後継首相に選び、1924年1月7日に清浦内閣が成立。こうして、非政党内閣が三つ続くことになり、普選による政治刷新を期待する国民の失望は大きかった。これに対して政友会は、憲政会・革新倶楽部と連携して第二次護憲運動を開始した。清浦内閣は、護憲三派の攻撃に対し、1月31日に衆議院を解散し、5月10日に総選挙を行なう事になった。当時の選挙権は1919年の選挙法改正により直接国税3円以上を納める25歳以上の男子に認められていた。

 選挙の結果は、護憲三派の圧勝であったが、憲政会が議席を大きく伸ばした。清浦内閣は6月7日に総辞職。今回も西園寺が中心となって後継首相を選定。第一党となった憲政会の総裁の加藤高明が首相となり護憲三派の連合政権を発足させた。加藤高明は東大法科出の外交官出身で、岩崎弥太郎(三菱)の長女と結婚していた。革新倶楽部の党首格の犬養毅は、加藤高明が大嫌いであった。外相に就任した幣原喜重郎は、妻が加藤高明の妻の妹であった。
 加藤は、国民の要望に応えるため、普選案の作成を重視した。1925年3月、普通選挙法が成立した。男子の納税資格を撤廃し25歳以上に選挙権を、30歳以上に被選挙権を与え、選挙区を小選挙区制から中選挙区制に変えた。この選挙制度は、第二次世界大戦後の一時的中断を挟んで1990年代半ばまで、70年近く続いた。
 英国では、1918年に男子の普選が達成され(30歳以上の女子にも与えられた)、1928年に男女平等の選挙権が実現している。
 普選法が通過した同じ議会で、治安維持法も成立している。1900年に制定した治安警察法だけでは十分でないとの判断からである。

 1926年1月、加藤首相は慢性の腎臓病と心臓病に風邪をこじらせ、肺炎を併発して急死。66歳であった。加藤は英国流の二大政党制を理想とした。原・加藤ともに、政党政治へのしっかりした理念を持ち、自分にも厳しい人間であった。原が暗殺され、加藤までも死去した事は、その後の政党政治崩壊と戦争への流れを暗示しているようだ。

 加藤の後継として若槻礼次郎が首相となり、加藤内閣の延長として第一次若槻内閣が誕生した。


 1924年5月の総選挙の結果、清浦内閣が辞任する頃、5月26日に排日移民法が米国で成立。米国では既に中国人など日本人以外のアジア人の移民が禁止されていた。排日移民法は、日本人の心の底に対米不信の根を植え付けた。このような状況の1924年6月11日、幣原喜重郎が加藤高明内閣の外相に就任。幣原は、列強と共同でワシントン体制を実現し、東アジアに安定した国際秩序を形成しようとした。中国も国際法の秩序を受け入れるべきと考えていた。しかし、中国は不平等条約や二十一か条要求は正義に反するので、直ちに撤廃を要求する権利があるととらえた。日本は近代化のために西欧文明を受け入れたが、中国は自国の基準で西欧文明に対応しようとした。

 1924年1月、中国国民党の孫文の指導の下で、中国国民党と中国共産党の第一次国共合作が実施された。孫文は中国を統一しようとした。孫文は1925年3月に死去したが、国民党は着実に強くなり不平等条約打破に向けたナショナリズムも強くなった。1925年11月22日、郭松齢(かくしょうれい)事件という内乱が起きる。張作霖の部下の郭松齢が張に対して起こした反乱である。1926年4月10日にはクーデターで段祺瑞(だんきずい)政権が倒れ、北京は無政府状態になった。
by utashima | 2013-10-01 18:04 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『政党政治と天皇(日本の歴史22)』(伊藤之雄著)の第5章

第5章 改革のうねり---国際協調とデモクラシー---

 第一次世界大戦により、米国が英国に代わり、世界最強国になった。日本が影響力を増した中国に、米国も強い関心を示した。米国はパリ講和会議において、山東問題で日本の要求に屈していた。米国は第三次日英同盟が1921年7月12日に10年の満期となるので、その更新を妨げたかった。その前日の7月11日、米国大統領ハーディングは、ワシントンで国際会議を日英仏伊に提案。ワシントン会議は原首相が暗殺されて1週間後の1921年11月12日から始まった。1921年12月13日、日英米仏で太平洋問題に関する四か国条約が結ばれ、日英同盟が破棄された。翌1922年2月6日、海軍軍縮条約と中国に関する九か国条約などを調印してワシントン会議は終わった。
 海軍軍縮条約では、戦艦・空母などの主力艦の保有トン数比率を、米:英:日:仏:伊=5:5:3:1.67:1.67と規定した。この他に、ワシントン会議では、中国が若干の補償金を払う事と交換に、日本がドイツから奪った山東省の権益の大部分を中国に返還し、日本軍は山東半島から撤兵する協定が成立した。この体制をワシントン体制という。

 原首相が暗殺された後、西園寺公望の発案で高橋是清が後継首相に就任した。高橋は、中国に安定した政権ができるよう援助するという強い姿勢があった。高橋は内閣を改造して改革路線を推進しようとしたが、保守派の抵抗で高橋内閣は1922年6月6日に総辞職した。次に組閣した加藤友三郎は、高橋内閣以上に財政緊縮方針を立てた。しかし、加藤は1923年8月、胃ガンのため死去した。

 1923年8月27日、70歳の山本権兵衛(海軍大将)が後継首相に推薦された。この年の9月1日、関東大震災が起きた。死者9万9474名、負傷者10万2961名、行方不明者3万8782名。被害総額は50億~200億円と言われ、前年の政府の歳出決算14億2969万円の3.5~14倍であった。9月2日、山本内閣が発足した。大震災直後の恐怖の中で、多数の朝鮮人が暴動を起こすという流言が広まり、パニック状態の民衆は刀剣・竹槍などで武装し、朝鮮人を見つけると暴行を加えた。9月7日頃までに、約6000名の朝鮮人、約200名の中国人が殺された。12月27日、議会の開院式に行啓する摂政裕仁が、虎の門外で二発の弾丸を発射される事件が起きた。裕仁に怪我はなかった。犯人は無政府主義者であった。

 当時の女子の繊維産業従事者(女工と蔑称された)は、二交代制昼夜業であり過酷な勤務だった。1929年7月、改正工場法で女子と16歳未満の年少者は、22時から5時までの徹夜作業が禁止された。看護婦は、男子の巡査と共に、小学校しか出られない庶民の子女が目指す職業の一つだった。1915年6月、国家レベルで初めて看護婦資格が定められ、看護婦が専門的職業として定着した。小学校の女性教員は、女性の職業の中では恵まれた職業だった。1920年、宮崎県で日本初の女性の小学校長が誕生。1918年には美濃電気軌道で日本初の女性車掌が誕生した。

 明治の日本では女性に参政権は無く、治安警察法第五条で、女性の政談集会への参加も禁止されていた。女性自らによる本格的な政治運動は、第一次世界大戦後の新婦人協会の創立に始まる。その主唱者は平塚雷鳥(本名は明(はる))。平塚は1911年に婦人文芸雑誌『青鞜』を発刊。創刊号で「元始、女性は太陽であった」という有名なエッセイを載せた。イギリスでは婦人参政権は1918年に実現、ドイツも翌年に実現し、米国も1920年に効力を発した。1920年、33歳の平塚は、26歳の市川房枝の協力を得て、新婦人協会の発会式を挙行。新婦人協会は、婦人参政権でなく、治安警察法第五条の改正を当面の目標とした。市川と平塚はその後意見が対立し、1921年に市川は協会の理事を辞任。奥むめおが後を引き継いだ。1922年3月、治安警察法第五条二項の削除と女性の政治集会参加の自由を認める法案が成立した。
by utashima | 2013-09-25 22:14 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『零戦(その誕生と栄光の記憶)』(堀越二郎著)

 近所の書店を覘いてみると、宮崎俊監督のアニメ『風立ちぬ』に関連の書籍がたくさん並べられている。その中で私は、表記の本を購入した。最初の出版が1970年3月であり、その年の4月に私は九州大学の航空工学科に入学しており、もしかしたら、学生時代に読んだ本かも知れない、という思いがあった。

 読んでいる内に、学生時代に読んだ記憶が甦るかもという期待を持って読み進めた。結論から言うと、学生時代に読んだという確信は持てなかった。しかし、好きな航空機の勉強ができる楽しい日々を送っていた学生時代の気持ちを、幾らか思い出す事ができた気がする。アニメ『風立ちぬ』はまだ観ていないが、必ず観ようと思う。
by utashima | 2013-09-19 22:17 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『政党政治と天皇(日本の歴史22)』(伊藤之雄著)の第4章

第4章 天皇と立憲君主制

 1918年1月、宮内省から久邇宮邦彦王(くにのみやくによしおう)の第一女良子(ながこ)を皇太子裕仁(ひろひと、後の昭和天皇)の妃に予定する旨の御沙汰書が伝達された。そして翌1919年6月10日、宮内省から良子が皇太子妃に内定したとの御沙汰が出され、公表された。
 偶々学習院の体格検査を命じられた軍医は、久邇宮家に島津家から色覚異常遺伝の要素が入っていて、良子の子孫にも遺伝する可能性がある事を発見した。その事が1920年5月に元老筆頭の山県有朋に伝わった。子世代の女子は全て健常者であるが、男子は半数が色覚異常となる恐れがあると分かった。山県らは皇室に色覚異常の系統が入るのを防ごうと考え、久邇宮に内約辞退を願う事にした。これを「宮中某重大事件」という。
 原内閣と政友会の主流も内約辞退を求める側であった。これに対し、良子の婚約を支持する側には、国粋主義者のグループの他、野党第一・第二党も加わった。婚約破棄への支持が弱い事を感じた中村宮相は1921年2月10日、婚約内定の遂行通知を新聞社宛に出し、辞職した。大正天皇の皇后は皇太子と良子の結婚に賛成していなかった。
 11月4日に原首相が暗殺され、その約3か月後に山県が死去し、良子と皇太子の結婚に異議を唱える最有力者がいなくなった。摂政となった皇太子の同意を得て、1922年6月に結婚は正式に決定した。しかし、婚儀は1923年9月の関東大震災のために延期され、1924年1月26日に挙行された。

 1919年11月、山県や原敬は、皇太子が結婚前に欧(米)を遊歴すべき事で一致した。大正皇后節子が消極的だったため、洋行の決定は順調には進まなかった。1921年1月、松方内大臣が奏上してやっと裁可を得た。奏上された皇太子の日程は、6~7か月間の予定で軍艦でインド洋から欧州へ行き、帰路は米国を通って帰国というものだった。しかし宮内省から、米国は危険であり見合わせる案が原に伝えられた。1921年3月3日、皇太子は横浜港から御召艦「香取」に乗船し、「鹿島」を随艦として従え、渡欧の途に就いた。英・仏・ベルギー・オランダ・イタリアを訪問した。5月18日、ケンブリッジ大学でタンナー教授から、英国憲法史の進講を受けている。立憲王国での王の権限の制限、国王の公の意思は議会の世論によって裏書きされる必要がある事、英国国王は時に内外の政策を調整緩和する事を実施している等、英国の立憲君主制の本質が正確に講じられた。皇太子は、1921年9月3日に無事横浜港に帰着した。

 大正天皇の病気は1920年末の議会の開院式等に出られないほどに悪化していた。1921年9月3日に皇太子が帰国すると、摂政設置への動きが進んだ。11月4日に原首相は暗殺されたが、摂政設置の路線は揺るがなかった。11月25日、皇族会議、枢密顧問官の会議を経て、摂政設置が承認された。

 1921年11月4日午後7時30分頃、原首相は東京駅で短刀により暗殺された。65歳だった。原はその年の2月に遺書を4通書いていた。久邇宮良子の結婚問題や皇太子の渡欧問題に関し原を暗殺しようとする情報があったからである。原の死は日本国家の行く末に大きな影響を及ぼした。イギリスにかなり類似した立憲君主制が原のもとで形成されていたからである。原の暗殺は、満州事変から日中戦争・太平洋戦争への道を変え得た一つの可能性を摘み取った。原の葬儀は遺言により地元の盛岡市で行なわれ、会葬者は約3万人にもなった。原は地元盛岡市など岩手県に、他の東北諸県より遅れた形でしか公共事業を行なっていない。原への追悼者は、原の人柄と国民全体への奉仕精神の良き理解者達であった。

 明治天皇の解釈において、天皇の権限を限定的にとらえる天皇機関説と、絶対的にとらえる天皇主権説があった。1911年夏、東京帝大法科教授の美濃部達吉は、文部省主催の教員講習会において憲法を講義。その講義録は『憲法講話』の名で出版された。そこで38歳の美濃部は、天皇主権説を取る穂積八束(東大法科の教授)の学説を、専制的思想を国民に吹き込み、国民の権利を抑えて絶対の服従を要求し、専制政治を行なおうとする主張であると、攻撃した。両教授の論争は1913年まで続いた。学界・官界・ジャーナリズムの過半の支持を得たのは、美濃部の天皇機関説であった。天皇機関説は、1935年に政府によって否定されるまで、明治憲法の主流的解釈であった。

 政治学者の吉野作造は積極的にジャーナリズムに身を乗り出してデモクラシー思想を普及させた。東京帝大法科の教授だった吉野は、37歳だった時、『中央公論』1916年1月号の巻頭に掲載された「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」という論文で、一般読者に向けて民本主義の第一声を発した。吉野は、言論の自由や選挙権の拡張、政党内閣制の実現を主張した。吉野は1919年から盛り上がる普選運動を導いた。
 1919年に朝鮮と中国で三・一運動や五・四運動が起こると、吉野は、反軍閥・反侵略から発した中国の排日運動は大正デモクラシー運動と目的を同じくするものと論じた。原内閣は吉野の姿勢を容認していたと考えられる。吉野は、収入のかなりの部分を日本に留学している朝鮮・中国人の学生に、自らの金銭と明かさずに給付していた。
 ウィキペディアによると、吉野は憲兵に狙われており、関東大震災直後、憲兵が吉野宅を急襲したが、近隣の住民に気付かれ暗殺は未遂に終わった。
by utashima | 2013-09-19 21:14 | 読書 | Trackback | Comments(0)