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私のブログに、ラグランジュ点の位置を潮汐力の観点から説明する資料を提供して頂いた田中 彰氏が、ご自身のブログを開設された。『落ち零れの知恵と工夫 -高校の物理と数学で軌道解析に挑戦-』というタイトルのブログです。これからもご自身のブログ上で、新しい観点からの軌道解析を展開して戴けると期待しています。
今日、我が家の電話(KDDIのメタル・プラス電話、基本料金1500円)を、ACCSのケーブル・プラス電話(基本料金1396円)に切り換えた。基幹回線をNTT回線でなく、各地のケーブルTV回線を利用する電話システムである。そのついでに、ネット回線も今までの6Mbpsから100Mbpsに増強して貰った。
ネット回線には30Mbpsのサービスもあるが、100Mbpsとケーブル・プラス電話を一緒に契約する事で比較的大きな割引があるので、100Mbpsに決めた。TV の方は、以前から再送信サービス(ほぼ地デジのみ)を利用している。こちらは、2016年3月までは年間2310円だが、それ以降は月額735円に上がる。 今までと今後の月額料金をまとめると、以下のようになる。 今まで 今から2016年4月まで 2016年4月以降 TV再送信サービス 193円 193円 735円 ネット回線 3990円(6M) 4515円(100M) 4515円(100M) 電話 1500円 1396円 1396円 プースタ・レンタル 315円 315円 合計 5683円 6419円 6961円 実際に100Mbps回線でインターネットを利用してみた。7年目に入った古いPC(xp)でも20~30Mbpsの速度が出ている。職場でのネット速度と同程度である。工事の人が持ち込んだPC(xp)では90Mbpsが確認された。その人の話では、xpでは約40Mbpsが上限との事。その人のPC は改造したもの。最近の新しいPC(Windows 7)に替えれば、50~60Mbpsが出るのかも知れない。 [補足(2012年5月19日)] 電話回線をケーブル・プラス電話に替えるために行なった工事は、リビングに隣り合った祖母の部屋の天袋に設置されているドアホン・アダプタ(Panasonic製)の横に、電話用のケーブルモデム(CM6560TV, NEC製)と周波数変換器を設置した事。祖母の部屋のTV端子に接続している。1995年に設置したドアホン・アダプタは、現在も同じ型番の製品が使われている事をPanasonicのホームページで知って驚いた。 100Mbpsに増速するには、プースタを交換する必要があった。1995年に新築した時、ACCSはTVサービスだけだった。我が家にはTV端子が計8ヶ所にあり、信号レベルを上げるためにプースタを設置していた。 2000年3月にACCSはネットサービスを開始、私はすぐに申し込んだ。その時、外から取り込んだケーブルを2つに分け、1つをそれまで使っていたプースタに接続し、もう一つを直接私の部屋のネット端子に接続した。つまり、ネット回線はプースタを経由していなかった。取り付けられていたプースタには、ネット回線も増強する機能は無かった。この辺りの事は、今回の工事を見ていて知った。6Mbpsまでは、それで良かったが、それ以上高速の回線とするには、ネット回線のブーストも必要になった。TV台数が少なければ、プースタは不要かも知れない。 TVとネットの両方をブーストする機器に取り換え、その費用を月315円のレンタル料として支払う事とした。 TV視聴料金は、1995年から再送信サービスを利用している。ほぼ地上波12チャンネルだけのサービスである。地上波以外の色々な番組も視聴できるサービスは、2台目以降も5割程度の月額費用が必要であり、我が家のように台数が多いと、負担できない(したくない)。その点、再送信サービスは、台数に依存しないのが助かる。2016年4月から再送信サービスも約3.8倍に値上げになる事をACCSに電話して知った。ちょっとショックだったが、やむを得まい。 [補足2(2012年5月19日)](xpでは約40Mbpsが上限との事。その人のPC は改造したもの。) xpの標準設定では、遅い回線の時代に妥当だったパラメータ設定になっているため、現在のブロードバンド回線の能力が十分に発揮できないようだ。レジストリを高速回線に合わせて適切に変更すれば、速くできるらしい。私は、自信が無いので、xpの標準設定で使っている。
第5章 開国から尊王攘夷へ
1858年1月、日米修好通商条約全14ヶ条の協議が終了。前年末の12月29日、家定臨席のもと、老中堀田正睦が貿易開始の「やむをえない」事を説明し、大名たちに意見を聞いている。4度目の諮問である。大名たちは幕府の通商決断を了承した。 その後幕府は、天皇の承認も得ようとして、1858年1月下旬に堀田正睦自身が、外交交渉に当たった川路聖謨と岩瀬忠震を連れて上京の途につく。ところが、天皇・朝廷は条約の承認を拒否した。 戦前に文部省維新史料編纂会で編纂された『維新史』は、1911年から編纂が開始され、1941年に完成している。『維新史』では、天皇・朝廷は、条約に反対する大名たちや世論を受けて、条約承認の拒否を貫いたと描いている。今日でも、この事が繰り返し語られている。しかし、実際には、世界情勢を考えれば通商はやむを得ない事を、大名たちも納得していた。 孝明天皇は、幕府が予告していた外交事情説明を受ける以前に条約案の拒否を公家たちに示してしまっていた。堀田が、条約を断って紛争が起きたらどうするかを聞くと、朝廷は、欧米との戦争もやむを得ないと述べた。堀田は、「朝廷は、正気の沙汰とは存じられず」と江戸の老中に報じている。 『維新史』の記述は、事実に反して朝廷・天皇を称揚する皇国史観のフィクションに過ぎないと、著者は記している。 幕府は日本が弱国であるという現実を把握していたが、孝明天皇は中国より優れた「神州」という「万世一系」の神話に基づいた大国思想を持っていた。孝明天皇は血脈が弱い天皇だった事も影響していると著者は記している。堀田らが条約承認に空しく苦闘している間に、江戸では反改革派である南紀派の工作が進み、井伊直弼の大老就任が迫っていた。 1858年4月下旬、堀田が江戸に戻った三日後、「無名」であった井伊直弼が大老に任命された。6月に日米修好通商条約が調印された。改革派(一橋派)の開明的幕臣の川路聖謨らは左遷され、幕政に復帰する事は無かった。川路は1868年3月、江戸開城を目前にしてピストル自殺した。1858年から翌年に掛けて大老井伊が行なった弾圧、安政の大獄で、一橋派の橋本佐内らの藩士、近衛忠煕らの公家、徳川斉昭らの大名、岩瀬忠震らの幕臣が処分された。天皇は、幕府の外交を了承した。この後、天皇は一転して幕府側に政治スタンスを移行させた。この辺りは、戦前の『維新史』では触れる事が避けられている幕末史の闇の部分であると著者は記している。 井伊政権に対する反発が全国に広がり、九州や西日本各地の志士、小河一敏や平野国臣、真木和泉らが運動を始めていた。私は、平野国臣、真木和泉の名を良く覚えている。九州大学1年生の時に日本史の講義を選択したからである。その時の講義は、先生がゆっくり喋る文章を学生が全て書き取るという形態であった。上記両名の名前が度々出て来たのであろう、手で何度も書いたものは良く覚えているものだ。 1860年、水戸藩と薩摩藩の尊攘過激派の間で挙兵の盟約が成立。その年3月3日、井伊直弼が暗殺された。 [戊午(ぼご)の密勅] (ウィキペディアより) 戊午の密勅は、1858年9月14日(安政5年8月8日)に孝明天皇が水戸藩に勅書(勅諚)を下賜した事件。「密勅」は正式な手続(関白九条尚忠の裁可)を経ないままの下賜であったことによる。内容は、以下の3項に要約できる。 ・勅許なく日米修好通商条約(安政五カ国条約)に調印した事への呵責と、詳細な説明の要求。 ・御三家及び諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよ。 ・上記2つの内容を諸藩に廻達せよ。 将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡されたということは、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたということであったため、幕府は勅条の内容を秘匿し、大老井伊直弼による安政の大獄を起こす引き金となった。 [平野国臣](ウィキペディアより) 平野国臣(ひらの くにおみ、文政11年3月29日(1828年5月12日) - 元治元年7月20日(1864年8月21日))は、日本の武士・福岡藩士、志士。 攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や真木和泉、清河八郎ら志士と親交をもち、討幕論を広めた。文久2年(1862年)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかるが寺田屋事件で失敗し投獄される。出獄後の文久3年(1863年)に三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と大和行幸を画策するが8月18日の政変で挫折。大和国での天誅組の挙兵に呼応する形で但馬国生野で挙兵するがまたも失敗に終わり捕えられた。身柄は京都所司代が管理する六角獄舎に預けられていたが、禁門の変の際に生じた火災を口実に殺害された。 [真木和泉](ウィキペディアより) 真木保臣(まき やすおみ、文化10年3月7日(1813年[1]4月7日) - 元治元年7月21日(1864年8月22日))は、江戸時代後期の久留米水天宮祠官、久留米藩士、尊皇攘夷派の活動家である。神官として従五位下和泉守の官位を持ち、真木和泉守もしくは真木和泉、真木和泉守保臣として知られる。安政の大獄によって吉田松陰・橋本左内の指導者を失った後の尊攘派を形而上下にわたり先達として指導した。
今年7月から東京電力は、電力料金の約10%の値上げを申請している。そこで、我が家の最近の省エネ状況を確認してみた。
今まで、毎月の電気使用量、電気代、ガス使用量、ガス代をExcelに入力しグラフ化してきた。2005年から続けている。季節毎の変動が明瞭に分かる。しかし、年間を通しての推移を見ようとすると、これでは不便なので、直前12ヶ月の移動平均もグラフにしてみた。 これらの結果のグラフを眺めると、以下の事が確認できる。 (1)プロパンガスから都市ガスへの変更とエコ・ジョーズ給湯器への換装の効果 2008年にこれらを実施した。その結果、年間38%の省エネになっている。 (2)2010年に換装した省エネ型エアコンの効果 極めて暑かった2010年夏が終わる頃、リビングのエアコン(200V用)が寿命を迎えたので、新型の省エネタイプに換装した。その結果、夏季の電気代は約13%の省エネになった。我が家はもともと夏にクーラー機能を使う事は極力控えるようにしているので、全体に及ぼす省エネ効果は小さい。 (3)電球の蛍光管化・LED化の効果 数年前から全ての電球の蛍光管化・LED化を進めて来た。昨年辺りから小型LEDの値段が下がって来たので、蛍光管化できなかった所の電球を全てLEDに変えた。その結果、約20%の省エネとなっている。 以上まとめると、ガスは38%の省エネ、電気は20%の省エネを達成していると言える。 従って、今後、電気料金が10~20%上がったとしても、ぎりぎり吸収できる見込み。とは言え、折角LED化してコストを減らして来た分が吸い上げられる事になり、喜べない。
第4章 開国と外交交渉
1853年6月3日、サスケハナ号(2450トン)を旗艦とする4隻の艦隊で、ペリーが浦賀に来航。この頃の国際法(近代国際法)は、今の国際法(現代国際法)とはさまざまな点で違っていた。例えば、民族自決権を欠き、欧米諸国だけに構成員を限定し、戦争権も認めていた。 近代国際法は、世界の国々を、文明国、半未開国、未開(国とは認めていない)の三群に区分していた。文明国は、欧米の国家群のこと。半未開国はトルコ、ペルシャ、シャム、中国、朝鮮、日本等を指した。その他の未開は、無主の大地と定められ、文明諸国の「先占」の対象と規定された。これにより、近代国際法では、征服・占領が合法化された。 ペリーは浦賀沖停泊の翌日(6月4日)、測量船に江戸湾内に入るように命じた。測量船が攻撃を受けたら掩護できるように、もう一隻の蒸気軍艦ミシシッピー号の大砲の射程外には行かない様伝えていた。ミシシッピー号はサスケハナ号より一回り小型(1692トン)の外輪式蒸気フリゲート艦。大砲12門。19世紀初めには、大型の戦列艦には4000トンクラスが登場し、中頃には9000トンクラスのスクリュー式軍艦も登場。一方、日本の千石船は100トンクラスであった。 ミシシッピー号は江戸湾の奥深くに侵入、羽田沖1.3kmに迫った。パクサンズ型の滑腔大砲の有効射程距離は3カイリ(約5.6km、当時の領海範囲)をはるかに超えていた。江戸城も竹芝沖から射程に入る。サスケハナ号に乗艦した中島三郎助(浦賀奉行の与力)は、新型大砲の知識があり、船員に「これはパクサンズ砲ではないのか。射程は・・・」と尋ねている。 ペリーは国際法に依拠した対応を貫くと述べていたが、彼の江戸湾での行動は、以下に記すように、当時の近代国際法に全く適わないものであった。当時の領海は3カイリ。そして入り口が直線距離で6カイリ(約11.1km)より狭い湾・内海は「内水」と決められていた。「内水」は領海であり、領土と同じ扱いである。江戸湾の入り口、観音崎と富津の間は約7kmなので、江戸湾は「内水」であった。ミシシッピー号が江戸湾の中に侵入した時、中島三郎助は追尾して「内海に乗り入れ候儀は、相成り難し」と抗議している。 ミシシッピー号が江戸湾に侵入した時の様子(日本の45隻ばかりの番船がペリーの測量船を阻止しようと対峙)は、ベリーに同行した画家ハイネの水彩画に残されている。画家ハイネは記録を残すために派遣された。 6月6日の第一回の測量船内海侵入によって、幕府は大統領の国書を受領する事を決断した。6月9日、幕府は久里浜で大統領の国書を受け取った。そしてペリーは来年の再来航を予告して中国へ去った。 ペリーは翌年1月に7隻の艦隊で江戸湾内海の西岸に入り、横浜で日本側との正式交渉を実現した。日本側の全権代表は林復斎であった。通説では、林復斎の外交姿勢は、無知・無能と言われてきたが、著者はそうではなかろうと述べている。ペリー側の論理の「無理」を見事に突いた反論を行なっているからである。林復斎は、ペリー来航前の1850年から林家の当主として対外交渉史料集『通航一覧』の編集を主宰し、ペリー来航直前に完成させていた。著者は、偏見を排して幕府外交を評価する必要があると述べている。 1854年3月に日米和親条約が締結された。第9条に不平等な片務的最恵国待遇が書かれている。 ペリー来航時は、阿部正弘が老中首座であった。第1回ペリー来航直後の6月下旬に12代将軍家慶が死去し、家定が継承した。家定は極めて病弱であった。家定は、篤姫が嫁いだ相手である。阿部は、幕臣の人材登用も進め、筒井政憲、川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、勝麟太郎ら開明派能吏が起用された。 ペリー来航計画を知ったロシアは、プチャーチンを遣日全権使節として派遣し、4隻のロシア艦隊が長崎に入港。ペリー来航の凡そ1ヶ月後である。日本とロシアの国境を定める事、通商を始める事、日本の国法を守る事を伝えた。この頃の日ロ関係は良好であった。日ロ交渉はクリミア戦争の勃発により中断。1853年12月にプチャーチンは再来航し、下田で日ロ交渉が再開され、1854年12月に日露和親条約が結ばれた。択捉島とウルップ島の間を国境とし、サハリン島はこれまで通り両国民の混在の地とされた。 上記のクリミア戦争は、1853年10月にトルコがロシアに宣戦布告した事から始まった。英仏もロシアに敵対して、1854年2月に参戦した。日米和親条約は、その3日後に締結されている。1854年8月、長崎と函館の開港を認めた日英条約を結んだ。 日ロ交渉が再開された直後の1854年11月、安政大地震が発生し、下田港は大津波に襲われた。ロシアの軍艦ディアナ号は、津波に流される日本人を救助したが、修理のために回航する途中で沈没した。 アメリカのタウンゼント・ハリスが、日米和親条約の規定に基づいて、1856年に駐日総領事として下田に着任した。ハリスは江戸に赴き、家定と老中堀田正睦を訪問。通商と外交官駐在について2時間に及ぶ大演説を行なった。幕府は、演説内容を詳細に公式記録として書き留め、2日後、江戸城評定所で幕閣と海防掛の全員が対応を巡って評議をしている。慎重派である勘定奉行と、積極派の目付らとの間で意見が対立。勘定奉行たちは、ハリスの演説内容を幕府の持つ外交情報と突き合わせ、2日間で点検して上申した。その中で、ハリスの演説内容に幾つかの偽言がある事を証明している。老中堀田は、積極開国路線でなく、勘定奉行たちの「やむをえず」開国という上申を採用した。 [私(歌島)の補足] サスケハナ号に、尾道市(生口島)の農民の倉次郎が乗っていた事が、こちらのサイトに書かれている。 ペリー来航時の画家ハイネによる水彩画を、以下のサイトで見る事が出来る。 (1)雄松堂サイト (2)ハイネの残した4枚のスケッチ こちらのサイトでは、画家ハイネによる「世界周航日本への旅」、「日本遠征のグラフィック・シーン」について書かれている。 [追記(2012年5月6日)] (ロシア軍艦ディアナ号沈没後、ウィキペディアより) 1854年、ロシア海軍士官時代であったアレクサンドル・モジャイスキーは、プチャーチン提督による開国交渉のロシア艦隊の旗艦ディアナ号に同乗していた。ところが安政東海地震による津波で乗船は大破、修理のため向かった戸田への回航中に嵐に遭い宮島村(現、富士市)沖で沈没してしまった。一行はやむを得ず戸田に滞在し、モジャイスキーの設計の下、帰国のための帆船を建造することになった。 戸田には宮大工の上田寅吉を初め、数多くの船大工が集められ、モジャイスキーの指導の下、日本初の外洋帆船として建造された船は、プチャーチン提督によりヘダ号と名付けられた。日本の西洋型造船の嚆矢と言われ、複数が建造された同型のスクーナーは、戸田村のある君沢郡にちなみ君沢形(くんたくがた)と呼ばれた。 戸田村造船郷土史料博物館には日本最古の銀板写真であるモジャイスキーの肖像写真と、彼がディアナ号の船内で製作した模型飛行機の写真が展示されている。 なお、アレクサンドル・モジャイスキーは、蒸気エンジンを搭載した飛行機を製作し、1884年に飛行実験を試みた事で知られている。これは、(知られている限りでは)フランス人デュ・タンプルの実験に次ぐ史上二番目の有人動力飛行の試みであった。
我が家は1995年に新築し、今年で17年経った。12年目頃に畳表替えをし、それから約5年後の今日、畳裏返しをした。畳替えをあまり知らなかったので、こちらのサイトで勉強した。
畳替えには、以下の3つがある。 (1)畳新調 畳床と畳表の全てを新規に替える事。 (2)畳表替え 畳表だけを新しいものに取り換える事。 (3)畳裏返し 畳表を裏返して再び使う事。表が日焼けしていても、裏はまだ青いので使える。 我が家は、新築から数年後に行なうべき畳裏返しをやっていない。新築から12年目頃に畳表替えをした。今回の畳裏返しから5年経つと新築から22年となる。その頃には、畳床が寿命となる可能性があり、次回は畳新調となるかも知れない。
第3章 19世紀世界と天保の改革
1792年9月、ロシアの使節ラクスマンが、帆船エカテリーナ号で、漂流難民の大黒屋光太夫らを同行して根室に来航。伊勢国の光太夫は、江戸へ向かう途上、遠州灘で漂流しアリューシャン列島に着いた。ペテルスブルクでエカテリーナ2世に謁見し帰国の許可を得た。漂流から10年経っていた。ラクスマンは江戸行きを要請したが、翌年幕府は、長崎への入港許可証を渡して、帰航させた。 幕府は、1798年、大調査団を蝦夷地に派遣し、1802年に蝦夷地を永久直轄とした。 1804年、ロシア全権使節レザノフが、軍艦ナデジュダ号で長崎にやってきた。ラクスマンが10年前に得ていた入港許可証を持って。レザノフは日本から食料や日用品、資材を輸入しようとしていた。幕府は、レザノフを6ヶ月間隔離状態に置いた上、翌年に「鎖国の祖法」を口実に通商・外交を拒否した。強硬に拒否されたレザノフは、アレクサンドル1世に宛てて、サハリン島と南千島への軍事行動の許可を求める書簡を送った。そして皇帝の許可が出ないまま、サハリンと南千島の日本植民地の破壊を命じた。1806年、サハリン・南千島、礼文島・利尻島が海軍大尉フヴォストフ達に攻撃された。「フヴォストフ事件」である。なお、攻撃したフヴォストフは、ロシア軍によりオホーツク港で逮捕され、軍法会議で有罪となっている。ロシアは、ナポレオン戦争もあり、サハリン島、択捉島に、以後40年間現れなかった。19世紀初頭の日ロ関係は、危機から安定へ振れた。 1837年に第12代将軍となった家慶は、1839年に水野忠邦を老中首座に着ける。水野は前将軍家斉の側近勢力を追放し、天保の改革に着手する。改革の始めに、江戸の町方、在方に苛酷な倹約令が出された。農民の衣食住、冠婚葬祭、娯楽に至るまで悉く制限した。7代市川団十郎は江戸を追放され、現在の中央区にあった江戸三座は、辺鄙な浅草猿若町へ移転させられた。江戸に500軒以上あった寄席は、15軒に減らされた。寄席は庶民が気楽に楽しめる娯楽だった。 文化文政期から天保期にかけて、農村では寺子屋に通って教育を受けられたため、覚えた文字と計算能力によって、都市へ出て稼ぐ事も出来た。小林一茶は、15歳で信濃から無一文で一人江戸に出て、苦労しながら生きて、優れた俳諧の才能を開花させた。江戸町奉行の遠山景元(遠山の金さん)は、水野の苛酷な都市政策に抵抗し、寄席見物を弁護した。水野は、「浜松の悪魔外道」と罵られた。 上昇した物価を下げるため、株仲間解散令が出される。幕府は発令の前に、大坂町奉行に物価騰貴の調査を命じていた。大坂町奉行は、大坂への商品の集まりが悪いのが原因であり、問屋商人をもっと使うべきと、幕閣の考えとは反対の報告書を出した。幕府はこれを握り潰して株仲間解散令を発令した。その効果は無く、強権によって、小売値段、地代、日雇い給銀などを引き下げさせた。江戸は大変な不景気に陥った。 1839年11月、イギリス軍艦二隻と清国海軍29隻が、広州の珠江河口にある川鼻(せんび)で戦闘を交え、清国兵船の殆どが破壊された。アヘン戦争の緒戦である。中国はヨーロッパ諸国に貿易を許しており、中国は茶、生糸、磁器などを輸出し、中国へ多額の銀が流れていた。イギリスから中国への輸出は振るわず、イギリスは大幅な貿易赤字であった。そこで、イギリス東インド会社は、統治していたインドでアヘン栽培・精製を行ない、アヘンをイギリス商社に売り、中国に密輸させた。その結果、多額の銀が中国から流出した。中国人アヘン吸引者は200万人を超えた。 1839年、清の総督林則徐はイギリスからアヘン2万余箱を没収し海中に廃棄した。この後、武力衝突が起きた。川鼻の開戦後、イギリス国会は戦争を9票差で承認した。この時のグラドストンの以下の反対演説は有名である。「その原因が、かくも不正な戦争、かくも永続的に不名誉となる戦争を、私はかつて知らないし、読んだ事もない。」 イギリス軍は中国西南海岸諸都市を攻撃し、南京に迫った。清朝は屈服して南京条約を結んだ。中国は、香港を割譲し、多額の賠償金を支払った。アヘン戦争は、イギリスの不義の戦いであった。 日本がアヘン戦争情報を最初に入手したのは、1840年6月に長崎に入港したオランダ船から。情報は水野忠邦に衝撃を与えた。水戸藩第9代藩主の徳川斉昭(徳川慶喜の実父)は、ヨーロッパが東アジアで最初に侵略するのは日本であろうと考えていた。1825年の異国船打ち払い令は1842年7月に大転換し、薪水給与令が出された。この令は、水野忠邦を含む3名の専断で出されたらしい。他の2名が誰か分かっていない。 1843年、印旛沼掘割工事が着工された。印旛沼の工事は、寛文期、享保期、天明期の三度試みられたが、いずれも失敗に終わっている。今回の工事は、銚子から江戸への物資輸送水路の構築が目的であった。江戸への海上輸送が妨害されれば、江戸は10日も持たないと認識されていた。着工から3ヶ月で90%が完成したが、水野忠邦の失脚により、工事は中止となった。 長州藩、薩摩藩、肥前藩は、いずれも天保の改革で財政改革に取り組み、巨額借財を踏み倒し同然に整理し、財政を再建した。これらの雄藩では藩の人材登用により、明治維新に繋がる勢力が、天保期に登場している。
以前のブログ記事『Google Earth 6.2.1 の異常表示』で、その時の最新版が正しく表示されない事を書いた。そのため、今日まで、バージョン5.2.1 を使って来た。
今日、Google Earth 6.2.2 が出ている事を知り、ダメ元で設定してみた。正常に動作した。
第2章 民衆運動の高まり
1823年に畿内の村々が結束して「文政6年一千七ヵ村国訴」を起こした。百姓が生産した綿花を自由に販売する事を求めたもの。訴えられたのは「大坂三所綿問屋」である。国を超えて大統一戦線を組んだ組織性の高さにより画期的と評価されている。 当時、郷宿(ごうやど)・公事宿(くじやど)と呼ばれる宿があり、村役人や百姓が公用で奉行所に出張した時に利用された。公儀からは非公認であったが、訴訟代理人としての「公事師(くじし)」が営業していた。これが後に弁護士となる。 百姓による請願の数は、江戸後期において非常に多くなっており、日本の百姓は受動的・静態的という私たちのイメージは、実態とは大きく相違している。村々は庄屋に「惣代」を依頼し、惣代は村々からの委託と支持を明確な文書で保証された。これは近代の代議制に近いと言う。 19世紀に一揆発生の2つのピークが見られる。1832~1838年の天保飢饉の年と、1866年頃である。飢饉によるものの他に、諸藩が国産専売や産物政策を始めた事も要因であった。百姓の生産物を安く買い上げるような圧政もあった。長州藩の専売制に対し、10万人にも上る参加者の長州藩天保二年一揆が1831年に起きている。長州藩は専売制を撤回した。この第一揆は、村田清風たちの改革派が進出するきっかけを作った。村田清風の後継者が周布(すふ)政之助であり、周布の後継者が維新の中心人物の木戸孝允(桂小五郎)である。 大坂でも窮民の救助をスローガンにする蜂起が1837年に起きた。元幕臣の大塩平八郎が指導した乱である。大坂市中の1/5が焼失した。 1840年、三方領地替えに反対する一揆が出羽庄内藩で起きた。幕府は、庄内藩酒井氏を長岡に、長岡藩牧野氏を川越に、川越藩松平氏を庄内に転封する事を命じた。第11代将軍徳川家斉の実子・斉省を養子にとった川越藩主松平斉典が、実高が多く裕福な庄内藩領地を狙って幕閣に働きかけたもの。藩から転封費用負担を命じられた庄内藩の農民が、この一揆を起こした。各所で数万人規模の集会を開くと共に、代表数十人が江戸に出て幕府要人や諸藩主に直訴(駕籠訴(かごそ))した。将軍家斉の死去が有利に働き、翌年に三方領地替え令は撤回された。一揆勢には軽い処分だけの稀な一揆であった。 一揆の後、一揆指導者により、『夢の浮橋』と呼ばれる一揆の様子を描いた記録(絵画)が作られている。『夢の浮橋』は、2000年に国立歴史民俗博物館で企画展示が行なわれた。 江戸時代においては、越訴(おつそ:藩主を超えて幕府に訴える事)を含めて訴訟が認められており、柔軟な支配を行なった。道理のある事柄を手続きに従って越訴した場合は、罪を問われなかった。しかし、理非の判断は幕府が独占しており、理が無いと判断された場合の処罰は苛酷であった。明治時代になって、江戸時代は「暗黒の近世」という虚像が作られた、と保坂 智氏は指摘している。明治政府は、幕府を転覆して政権を得ており、幕府政治を暗黒なものと描く必要があったという。
私は3月末でJAXAを定年退職した。4月からは、月12日勤務の再雇用となった。家内は60歳未満なので、2週間以内に国民年金第3号被保険者から第1号被保険者に切り換えねばならない。
今日、家内と二人で、つくば市役所に出かけ、上記の手続きを済ませた。今後は、月額約1.5万円の国民年金保険料を納める。
昨年12月から『銀星囲碁12』を使い始めた。12月末までの対戦状況を以前の記事に記している。10戦して私が1勝できるかどうか、という状況であった。ソフトの設定は、制限時間15秒とした最強(4段)で、私がいつも白を持っている。
3月6日から現在までの14戦では、7勝7敗のタイである。今年の1月、2月と勝率0.1程度の対局を続ける間に、自分の欠陥が見えてきた。対戦していると、ソフトが巧い手を打ってきて、こちらが困る状況になると言う事が何度かある。局後にその時の状況を分析する。 相手が人なら、殆ど負けない相手にそれほど真剣にはなれないと思うが、相手はソフトなので、いつも全力で対戦してくれる。僅か2,3ヶ月で4段の『銀星囲碁12』と互角に対局できるようになるとは、予想していなかった。 囲碁ソフトは、今後も強くなり続けるであろうが、私もそれに挑戦して棋力を向上させたい。
最近公開された NASA 探査機を対象とした3D表示サイトを2つ紹介します。
(1)Eyes on the Solar System 私は、これを半年位前に見つけた。月・惑星ミッションを遂行する探査機の出発からの trajectory を3D表示できる。木星に向っている JUNO や、月周回軌道で月重力場の観測を開始した GRAIL などの trajectory を見る事が出来る。太陽系の天体の軌道も眺められる。まだ β 版であり、これからも進化し続けると思われる。 (2)Eyes on the Earth こちらは、1週間程度前のNASAニュースで公開を知った。NASA の地球観測衛星の軌道を3D表示できる。それらの衛星の観測データから得られた色々な物理量(大気温度、海面高度、オゾン量、二酸化炭素量など)の Map 表示や年毎の違いなども表示できる。
尾道市東京事務所ブログのRSSを登録し、毎号読んでいる。今日、3月22日の記事を読んだ。タイトルは、『港築いたお奉行さん~平山角左衛門』である。住吉浜を埋め立て、築港の恩人として知られる第13代尾道町奉行・平山角左衛門の話である。住吉浜は、私が住んでいた向島の「彦の上」地区の対岸付近である。
その記事の下に、「海事都市尾道」サイトへのリンクがあり、更にその中の『海をめぐる歴史と文化』を読んだ。古代から近代の尾道の歴史が記されている。中世のPDFを読むと、室町時代の1371年に足利氏の縁戚に当たる今川貞世(出家後の名は了俊)が九州へ向けて遠征する道すがらに書き留めた紀行文『道ゆきぶり』の中の以下の一節が紹介されている。 「たゞ此むかひたるかたに、よこほれる島山あり。むかし此所をらうじける人、和歌の道にすける心ふかきあまりに、おりたつ田子いりぬる海人までも、歌をなんよませつゝ待てけうじけるより、やがてこの所を歌のしまというとぞ。」 向かいに見える島は和歌が盛んで、後に「歌の島」と呼ばれる様になったとある。 3月23日に職場の皆さんが、私の定年退職慰労会を催して下さった。現在の職場の方々だけでなく、20年以上前の部署でお世話になった方々も出席して下さり、とても懐かしく嬉しかった。場の一角は、30年前の職場の再現であった。なお、定年退職と言っても、65歳までの5年間は、JAXAに再雇用して頂く予定です。参加して頂いた皆さん、有難う御座いました。自宅に帰って、寄せ書きを読ませて頂いた。その中に、ある若い方の「歌島さんにとって、軌道力学とは何だったのでしょうか。」という文がありました。それを読んで、思わず自分を振り返ってみました。 軌道力学は、私にとって、生き甲斐だったと思います。学生時代は高速流体力学を勉強しており、軌道力学は素人でした。でも、昭和51年にNASDAの追跡開発室に配属され、田中彰氏や広田正夫氏の指導を受けながら軌道の検討を進めて、それが実際の衛星に適用され、予想通りのデータが得られた時の喜びは、何物にも代えがたい物でした。その時から、軌道力学が生き甲斐になったように思います。理論的な検討と実際の衛星運用とが一体となった良い職場でした。特に若い内にこのような経験をしておく事は大切と思います。 目標100歳までのこれからの40年間、軌道力学を生き甲斐としながらも、幅広い分野に興味を持ち続け、色々なブログ記事を書き続けたいと思います。右の花は、慰労会の最後に頂いたものです。
第1章 「成熟」の進展
江戸時代初期の17世紀、約100年の間に日本の人口は2倍になった。18世紀に入ると次第に減少し、1780年代、天明の飢饉で最小となり、再び少しずつ増えた。1726年の人口は2654万人、120年後の1846年は2691万人だった。18世紀半ばから19世紀初頭は、地球は小氷期であった。日本では天明の飢饉(1783~1788年)、天保の飢饉(1832~1838年)が起きた。最近の説では、18世紀の日本は人口は停滞したが、社会や経済は成熟を迎えたとする見方が有力である。著者もその説に賛成している。 文化文政期(文化年間1804~1818年と文政年間1818~1830年)の政治は、文政の貨幣改鋳に代表される。これにより流通通貨量は46%増加。以後、幕末期にかけて貨幣の改悪が度々行なわれた。文政貨幣の改悪やそれに次ぐ天保貨幣の改悪について、近年では、簡単に不健全な財政政策とは言えないとの見方に変わりつつある。改鋳益金を得る事で、年貢増徴を抑える事が出来た。この時期の経済は、急増する貨幣を必要とした。 18世紀を通じて最も商品化が進んだのは、綿・繭(まゆ)・藍・紅花・菜種・楮(こうぞ)など、衣服や油、紙に代表される生活加工品の原料作物である。綿作の肥料として、蝦夷地で漁獲・加工されたニシン肥が必需であった。本州沿岸で鰯(いわし)が乱獲され、干鰯(ほしか)の価格が高騰していたためである。 戦前の研究者たちは、江戸時代後期の日本の農家が、野蛮な領主の圧政の下にあったと考えていた。それに対し、1950年代、兵庫県の氏田家の経営の変遷が明らかにされた。氏田家は中規模経営から富農に至った農家である。この氏田家に関する経営分析は、江戸後期の百姓の悲惨なイメージを変えた記念碑的研究である。 氏田家は江戸時代初期は田畑1町歩(約1万㎡)位の中農だったが、1790年代に3町歩の富農に拡大し、明治中期までその状態を維持していた。2町歩以上の自作経営を行ないつつ労働力も雇って収益を上げていた。地主化しないこのような農家を富農と呼んでいる。この時代の天領(幕府領)では、稲作、綿花・菜種の栽培、木綿織りが主であった。年貢の収入全体に占める割合は、15~20%である。総収入の50%前後の収益が発生している。 一方、イギリスでは、1730年代から90年代に、税率は収入の25%から50%に上がっている。当時のイギリスは、大衆に重税を課す軍事国家であった。 また、土地を所有せずに借りて、労働力を雇って「富農」経営している事実が、1960年代に発見されている。19世紀の「小作富農」の発見は、江戸後期農村のイメージを変えるもので、研究者に大きな衝撃を与えた。 この頃、織機はイザリ機(ばた)から高機(たかばた)に変わっていた。高機の導入で生産能率が2~3倍に上がった。イザリ機と高機については、こちらのサイトを参照。 紡糸と織布の生産能力の不均衡が、産業革命が起爆するきっかけであった。当時の紡糸車は手織機よりもはるかに生産能率の低い装置だった。必要に迫られて発明家が登場し、紡績機は飛躍的な生産能力を有するようになる。この不均衡は日本もイギリスも同じであった。イギリスは18世紀中頃、産業革命により大規模な人口爆発が起きたが、19世紀の日本では起きていない。その違いは、イギリスは強大な海軍力を背景として植民地などに無関税で大量の綿製品を輸出できた事にある。 日本では19世紀になると、他の地方から綿を買い入れて木綿織り生産を行なう地域が出てくる。そして、綿を売って米を買う農家が増えている。これは、本城正徳氏による、従来の定説を覆す発見である。これまで、日本では米穀市場が未成熟のまま明治維新を迎えたと説明されてきたが、その通説がこのように大きく変えられつつある。
今日、ドコモから携帯電話の無料点検サービスのメールが来た。私は、2年前から携帯電話を使用している。全く正常に使えているが、無料というのでドコモ・ショップに出かけた。10分ほど待って番号を呼ばれ、点検して貰った。
本体は正常で問題なし。ただ、バッテリーの使用可能容量が約半分になっていた。2年使って半分になるというのは、特別異常という訳ではないようだ。携帯電話を2年使うと、新しいバッテリーをサービスしてくれるというので、交換して貰って来た。来た甲斐があった。 私は、自宅にいる時は、携帯電話は充電スタンドに設置している。つまり常に充電している状態。リチウム・イオン電池にとって、このような使い方は良くないらしい。電気を使い切ってから充電するのが良い。しかし、毎日フル充電の状態で持ち出せるのは安心感がある。よって、多少バッテリーの寿命を縮める事になっても、今までの流儀を通そう。
電情報通信学会は、数年前から『知識ベース』を WEB 上に構築している。現時点では、まだ未完成である。私は、11群2編4章(宇宙システム)の第2節(人工衛星のナビゲーション)を執筆した。約1年前から、こちらのサイトに公開されている。既に私のこのブログで紹介していると思っていたが、ブログ内を検索しても見つからない。東日本大震災のために、それどころではなかったのかも知れない。1年遅れで紹介します。
宇宙ステーションを除く地球周回軌道を飛行する人工衛星のナビゲーションについて,軌道制御を中心に述べた。地球周回軌道の中でも数多く利用されている静止軌道と太陽同期準回帰軌道(極軌道)を取り上げ,ロケットから分離された時点から,ミッションを終えて衛星が廃棄されるまでの全フェーズを,「運用軌道への投入」,「運用軌道の保持」,「軌道離脱」の三つに分けて述べた。 興味をお持ちの方は、ご覧下さい。
序章 人間の静かな大地
18世紀後半から19世紀の幕末へ辿る日本を、根底から動かしたものは何であったかろうか。序章では視点を北方に取る。 松前藩が蝦夷地南部を支配していたが、近世の初めには、アイヌ民族の方が松前藩を凌ぐ勢いを持っていた。交易の主導権はアイヌの側にあった。 [シャクシャインの戦い](1669年6月) このころの松前藩は財政危機に陥っており、そのためアイヌと公平な交易を行なっておらず、各地で和人の横暴が続いていた。首長の一人シャクシャインの呼びかけに応じ各地のアイヌたちは一斉に蜂起し、和人の商船を襲い、和人を殺害した。はじめはシャクシャイン勢が優勢であったが、松前軍が総反撃に出てからシャクシャイン勢は追い詰められていった。松前軍は偽りの和睦をし、シャクシャインとその一行を偽りの酒宴の中、謀殺した。1669年10月23日(陰暦)のこと。シャクシャイン死亡後、アイヌ軍は衰退し、シャクシャインの戦いはアイヌ側の敗北として終わる。これ以後、松前藩はアイヌに対して一層支配を強くしていく。 江戸時代後期の社会の成熟を一層進展させたのは経済の上昇であり、それをもたらした要因の一つは、アイヌ民族と和人雇い漁夫が蝦夷地で生産したニシンの魚肥であった。蝦夷地は、千島列島とカラフト島を含めて、アイヌ語でアイヌ・モシリ、「人間の静かな大地」と呼ばれていた。19世紀以前に作られた地図では、サハリン島、千島列島、蝦夷地の姿・形は曖昧であった。サハリンが島なのか半島なのかは、世界の地理学上の最後の謎であった。 ロシア人がラッコの毛皮などを求めて、千島列島へ南下を始めたのは18世紀前半。そして南千島のウルップ島でアイヌと戦い、北千島に追い返されたのが1771年。 和人が南千島のクナシリ島へ交易に入るのが18世紀中頃。カラフト島南端に交易と漁業のための運上屋を設置したのは1790年であった。 1792年、ロシア使節ラクスマンが根室に来航。北方地域に危険と経済的価値を感じた幕府は、最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵らを派遣した。1808年、間宮林蔵らはカラフト西岸を海峡入り口付近まで船と徒歩で踏破し、カラフトが島であることを確信。翌年、カラフトが島であることを確認しようと更に進むが、途中で引き返す。そして、ニオブ族の首長の家に滞在した時、サハリンが島であることをはっきりと教えられた。間宮が作ったカラフト地図は、日本に来ていたシーボルトに渡され、1828年、シーボルトの出航間際にこれが発覚して「シーボルト事件」が起こる。シーボルトは25年後に間宮のカラフト地図などをヨーロッパで公表し、世界地理学上の最後の難問が解決、間宮林蔵の名も不朽のものとなった。 [クナシリ・メナシの戦い] 1789年、クナシリ島と蝦夷地東岸のメナシで、アイヌ民族が一斉に蜂起する。メナシは、現在の北海道東部の目梨郡羅臼町、標津町辺り。場所請負商人の飛騨屋支配人ら71名が殺害された。 18世紀後半のこの時期は、環オホーツク海地域へ資本と武力を持ったロシア人と和人が侵入を始めた時代である。ロシアは、1799年に北千島列島、アリューシャン列島、アラスカを統轄する露米会社を設立、少数民族に対する併合政策を開始。江戸幕府は、同じ1799年に、蝦夷地全域の幕府直轄を開始する。 19世紀前半のアイヌ社会を「悲惨」の枠組みだけで見るのは、アイヌ民族自身の歴史認識とも違っている。アイヌ民族の歴史の劇的な暗転は、明治政府の「官」の手によって土地規則や漁業権からアイヌが排除され、あらゆる大地と海、河川が奪われてから本格的に始まる。 1997年に施行されたアイヌ新法は、「旧土人」という名称を廃止し、民族文化を認めた点で前進したが、「先住民族」という表現も認めない点において重い課題を残した。一方、同年の二風谷ダム裁判で、札幌地裁は、アイヌ民族を「先住民族に該当する」と明記した画期的な判決を示し、共感を呼んだ。 [二風谷ダム裁判](ウィキペディアより) 二風谷ダム(にぶたにダム)は北海道沙流郡平取町、一級河川・沙流川本流中流部に建設されたダム。沙流川の治水と日高地域への利水を目的に建設されたが、建設に際し水没予定地に住むアイヌ民族との軋轢がダム建設差し止め訴訟にまで発展、アイヌ民族の先住性を問う契機となったダム事業として知られている。ダム湖は二風谷湖(にぶたにこ)と呼ばれる。
第5章 江戸の小宇宙
江戸には、広場・広小路、境内の形で、広大な空間が存在した。広場は町人地の中に防火帯として設定されたものが多く、大きな橋の隣接地(両国橋、江戸橋など)、幕府の公的施設や将軍家の菩提所近辺、大名屋敷の収公地など、多様な形態を持つ。境内とは、有力寺社の本堂・社殿とその周辺空間である。浅草寺、本所回向院、深川八幡社、湯島天神、芝神明社など。これらの空間は、居住は原則として禁止され、「営み」あるいは遊興の場に特化していた。江戸橋広小路=四日市には、かつて四日市町という町があったが、1657年の大火(明暦の大火)の後、江戸橋を火災から防衛し、南方への延焼を阻止するための空間を作るために、四日市町の大半は霊岸島へ移転させられ、その後の空地として生まれた。そこには、様々な営業店舗や娯楽・文化施設、幕府役所、宗教施設などがあった。 かつての四日市一帯は、現在、兜町にある東京証券取引所の近接地区として、証券会社が集中する日本資本主義の最大の拠点の一つとなっている。 1771年にベニョフスキーが阿波に漂着し、ロシアが日本に侵攻する恐れがある事を警告する。1778年にはロシア人アンチーピンが蝦夷地に現れ、松前藩に通商を要求する。1792年9月にロシア使節のラクスマンが日本人漂流民の大黒屋光太夫を伴って根室に現れ、通商を求める。1796年にはイギリス人ブロートンが室蘭に来航し近海を測量する。1797年からアメリカ船が長崎に入港し始める。 こうした状況に対し、幕府は徐々に重い腰を上げて対応する。 第一に、蝦夷地の直轄地化を行なう。蝦夷地とは、北海道南端の和人居住地域を除く北海道のアイヌ居住地を示す。幕藩体制下の「内国植民地」として存在した。ロシアの南下による緊張発生までは、国境が意識された事は無かった。 蝦夷地や南千島には飛騨屋などの豪商が進出し、松前藩と組んで蝦夷檜の伐採事業を大規模に展開していた。ロシアの商人は毛皮を求めて蝦夷地に至り、ここで両者の接触が起こった。飛騨屋らによる略奪的な伐採事業に対して、1789年に国後アイヌが反乱を起こす等、蝦夷地の先住民であるアイヌ民族との抗争も激化する。 こうした状況で、幕府は、蝦夷地の直轄化に乗り出し、1799年には東蝦夷地を、1807年には蝦夷地全体を直轄化する。 第二は、海防政策。1791年に異国船取扱令を出し、異国船が渡来した時は船や乗員を拘束し幕府の指令を待つよう諸藩に指示した。1792年には林子平に出身藩である仙台への蟄居を命じ、海防を論じる『三国通覧図説』や『海国兵談』などの著作を発禁処分にして弾圧し、世論が形成される事を阻止しようとした。 18世紀後半には、百姓一揆や村方騒動、都市域の打ち壊しが、未曽有の規模で高揚した。幕府や藩による過酷な支配に、富の再配分における不均等という矛盾が加わって、激しい民衆運動が展開した。1783年から始まる天明大飢饉のさなか、全国的規模で一揆や打ち壊しが続発。1787年5月に発生した全国の都市打ち壊しは、田沼派に引導を渡し、松平定信らによる改革政治をもたらす直接のきっかけとなった。松平定信は、江戸町会所を設立し、大店層を中心とする都市地主の負担により、飢饉や災害時に窮民を救済するための社倉とした。平時においても、資金を運用してその利金を原資として貧民への生活補助を実施した。 日本歴史における18世紀は、日本固有文化の形質が成熟し結晶した時期と言える。御雇外国人のエドワード・モース(モースは日本では大森貝塚の発見者および縄文式土器の名付け親として知られている)は、東京帝国大学の初代動物学教授として1877年から1882年にかけて、3回にわたり日本に滞在し、当時の日本の民具・工芸品・陶器などを多数収集。また何枚もの写真を撮影した。これらは、米国ボストン郊外のセイラムにあるピーボディ博物館所蔵のモース・コレクションに含まれている。
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