2011年 09月 29日 ( 1 )

『天下泰平(日本の歴史16)』(横田冬彦著)の第1章

第1章 乱世の終焉

 1615年5月、大坂の陣によって豊臣氏が滅んで雌雄が決した。凱旋後最初に出された政策が、6月13日の一国一城令であった。これは、大名の居城以外の全ての城の破却を申し渡したものであり、西国の外様大名を対象としたものと見られている。その後に制定される武家諸法度によってそれが全国に及ぼされると共に、居城の修理も届が必要となり、居城の内部構造を明記した城絵図の提出も求められた。一国一城令から1ヶ月後の1615年7月7日、伏見城に諸大名が集められ、秀忠付年寄本多正信から武家諸法度の発布が伝えられた。

 7月17日には、家康のいる二条城にて、禁中並公家諸法度17ヶ条が読み上げられ、関係者により署名された。そして改定される事なく幕末まで効力を持った。これは、日本の歴史上初めて、天皇の行為を法的に規定した法度である。7月24日には、諸宗寺院法度が出された。

 京都での諸法度の交付を済ませて、1615年8月4日、家康は二条城を出て駿府に帰った。1616年正月21日、家康は鷹狩に出た先で倒れた。一旦回復して駿府に戻るが、その後も病状は一進一退。4月17日朝、家康は75歳の生涯を閉じた。遺骸は遺言に従って久能山に移された。しかし、1年後、天海は家康の遺言とは違って遺骸を日光に運ばせた。

 家康の生存中は、「出頭人」と呼ばれる人たちが大きな権限を与えられていた。出頭人は、家康との人格的関係において取り立てられていた。金地院崇伝、林羅山、中井正清、ウイリアム・アダムス(三浦按針)など。

 秀忠は1605年に将軍職と江戸城本丸を譲られていた。しかし、家康の後ろ盾を失い、自らが天下人である事の実力を世に示さねばならなかった。

 豊臣秀吉の政権は、秀吉子飼いの家臣団・大名の豊臣「家中」と、豊臣家よりもはるかに伝統を持つ家格の外様大名たちとの二重構造になっていた。このようになった直接的な要因は、1584年、秀吉が小牧・長久手の戦いで家康に敗れ、軍事力による完全な全国征服戦略の見直しを余儀なくされ、代わりに関白になり天皇の権威を利用する戦略に転換した事である。その新たな戦略の基本となったのが、「惣無事」令である。これは、「天下静謐(せいひつ)」こそが「叡慮(天皇の意思)」であるとして、全国の大名に対して紛争の停止を命じたもの。諸大名は「惣無事」令を受け入れる事で、自己の軍団を解体させる事なく秀吉政権に服属・参加する事が可能になった。こうして、豊臣政権の中に、譜代の豊臣「家中」と「公儀」の名の下に結集した外様大名という2つの要素がはらまれる事になった。

 関ヶ原の戦と大坂の陣で豊臣家を完全に滅ぼした家康であるが、豊臣政権と同様の課題を抱えた。関ヶ原の戦が、徳川譜代の主力を率いた秀忠の遅参により、家康に率いられた福島正則ら豊臣系有力大名を主力に戦われた事、戦後の論功行賞で彼らが加増されて西国全体に定着し、大坂の陣でもそのまま残された事で、徳川政権においても旧豊臣系大名が新たな外様大名勢力として穏然とした力を持って残った。

 秀忠が将軍職を継いだ頃から江戸に諸大名の屋敷が建設され始めた。秀忠は、これらの外様大名の屋敷への御成りを重ね、彼らと直接対面して太刀・馬などを贈る事で、人格的な主従関係を構築していった。

 1617年6月、秀忠は東国諸大名を引き連れて上洛。西国大名も秀忠に合わせて上洛した。この時、播磨姫路城の城主池田光政が因幡鳥取に転封された。播磨には本多忠政が入った。これで譜代の最西端が播磨にまで達した。

 1619年の上洛では、旧豊臣系有力大名の広島城主福島正則が改易された。正則が許可を得ずに広島城の普請をしている事が分かったため。紀伊和歌山の浅野長晟(ながあきら)が安芸広島に移され、空いた紀伊に徳川頼宣(家康の十男)が入り、尾張・水戸と合わせて御三家が確定。大和郡山の水野勝成が備後福山に入り、譜代大名の前線は播磨から備後へと進んだ。

1622年10月、秀忠は家康以来の年寄衆本多正純(本多正信の長男)を改易した。秀忠との関係が上手く行っていなかった事が主な要因だった。正純はその後秋田佐竹氏に預けられて13年間幽閉され、73歳で横手にて没した。1622年4月、家康七回忌法要のため日光へ社参した秀忠を、宇都宮藩主本多正純が、宿泊所に「釣天井」なる仕掛けをして秀忠の暗殺を謀ったという説があった。他にも、秀忠が江戸城内で「毒のご用心」を厳しくしたこと等もあり、そうした警戒を必要とする情報があったのは事実であろう。

 越前福井68万石の松平忠直の不参改易問題も1622年頃にあった。忠直は秀忠の兄結城秀康の子である。忠直は秀忠の三女勝姫を正室とした。忠直は1621年頃から、江戸参勤のために福井から関ヶ原辺りまで出て来ては病気のために引き返すという事が続いていた。1623年5月、忠直は豊後萩原へ配流となった。

 1623年、家光が将軍宣下を受ける。1632年1月、秀忠が54歳で没し、家光の将軍親政が始まる。同年5月、肥後熊本52万石の加藤忠広が改易された。理由は、江戸屋敷にいた嫡男光広が、土井利勝が謀反を企てているとの密書を回したというもの。利勝には何の処分もなかった。加藤氏の後には徳川氏に忠実な細川忠利が豊前小倉から54万石で入った。10月には、家光の弟の徳川忠長の領地没収と高崎への逼塞が告げられた。忠長は母崇源院(江)に溺愛され、一時は徳川宗家を継ぐのではないかとも言われたが、家康の裁断で兄の家光に決した経緯がある。1632年頃、忠長は駿府城を与えられ「御三家」と同格で扱われていた。しかし、1631年2月頃から、側近を「御手討ち」にする等異常な行動が目立つようになる。駿府では「辻斬」も行なっていた。秀忠は忠長を勘当。秀忠の死後、1633年12月、忠長は高崎で自害させられる。これは、家光の病状(最後を参照)が悪化した事で、万一の場合を懸念したためと言われる。

 1620年6月、秀忠の娘、和子が後水尾天皇の女御として入内する。1623年12月、前関白の娘孝子が、家光の正室として江戸に下る。以後、歴代将軍は、全て宮家ないし摂関家から正室を迎える事になる。1629年9月、後水尾天皇が譲位し、奈良時代以来859年振りの女帝、明正天皇(めいしょう)が即位した。和子の娘である。

 1634年、家光親政の「御代替の御上洛」が行なわれた。この上洛に供奉した大名勢は30万人以上。武家集団を統合するための上洛はこれで終わり、4代将軍家綱以降は、将軍宣下も江戸城で受ける事になる。幕末の将軍家茂まで将軍上洛はない。

 1635年6月、武家諸法度が改定された。主な改正点は、どこで何が起こっても、在国の大名は軍団を出動させてはならず、幕府の下知を待つべきとした事、曖昧であった大名身分を1万石以上と規定した事など。「公儀」の範囲は、諸大名の連合体とされた。しかし、その運営機構は譜代大名と近習・物頭で独占されており、二重構造となっていた。

[家光の病状]
 家光は、過度の飲酒による鬱病となり、1633年後半と1637年は殆ど表向きに出られない日が続いた。
by utashima | 2011-09-29 21:48 | 読書 | Trackback | Comments(0)