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『帝国の昭和(日本の歴史23)』(有馬 学著)の第3章

第三章 「挙国一致」内閣の時代

 陸軍内部に、満蒙問題に対する中国政策への不満が明確な形を取りつつあった。陸軍内の長州閥人事を打破し満蒙政策を一新する事を目指した政治的な軍人たちを、ここでは陸軍中堅層と呼ぶことにする。この軍人たちの結社の一つが木曜会である。岡村寧次、永田鉄山、東条英機石原莞爾、鈴木貞一、根本博らが中心的メンバーであった。1927年には既に会合を持っていた。彼らは、帝国自存のため、満蒙領有を志向していた。1927年頃から二葉会と呼ばれる会合も持たれ、木曜会と二葉会が合流して、1929年に一夕会(いっせきかい)が結成された。この会のメンバーが間もなく陸軍の要職を占めるようになる。彼らが課長クラス以上になる頃に、満州事変が勃発する。

 満州事変の発端となった1931年9月18日の柳条湖事件(満鉄線爆破)は、石原莞爾や板垣征四郎らの計画的陰謀であった。9月18日夜10時過ぎ、奉天近郊の柳条湖付近で、関東軍は満鉄線を爆破し、これを中国軍の仕業として、中国軍の拠点北大営を攻撃。19日には長春地方、21日には吉林地方を占領した。その際、朝鮮軍司令官(林銑十郎)の独断越境による後方支援があった。

 若槻内閣は不拡大方針を決定するが、陸軍中枢の強硬姿勢に押し切られ、閣議は柳条湖事件以後の関東軍の行動を承認する。また朝鮮軍の独断越境も認め、そのための経費支出を承認した。陸軍中堅層の考えは、満蒙の領有であったが、参謀本部中央の同意を得られず、9月22日に親日政権樹立という方向を打ち出す。これが後の満州国建国に繋がる。

 関東軍は、幣原による国民政府との外交交渉や、英米などの幣原外交支持の動きを牽制しようと、10月8日に錦州爆撃を行なう。錦州には張学良が設けた仮政府があった。国際連盟は10月15日に非加盟国の米国をオブザーバとして招致することを可決し、24日に期限付きの撤兵勧告を採択した。反対は日本だけ。

 日本国内でも、クーデター計画が進行していた。橋本少佐は桜会を結成し、1931年に宇垣陸相をかつぐクーデターを立案、陸軍内部にも賛同者がいた。国家主義者の大川周明と組んだ計画だったが、実行はされず、三月事件として密かに伝えられた。
 橋本ら桜会は満州事変後も新たなクーデターを計画。首相官邸を襲撃して首相や政財界の要人を殺害し、荒木貞夫陸軍中将を首相とする軍部内閣を樹立しようとするもの。これは事前に洩れて、橋本らは憲兵隊に検束された。決行予定が10月だったので十月事件と呼ばれる。橋本らは軽い処分を受けただけだった。若槻内閣は事件を公表しないという閣議決定をした。若槻内閣は、1931年12月11日に総辞職した。

 若槻内閣総辞職の翌日、元老西園寺は政友会総裁の犬養毅を後継総理大臣に推薦した。政友会の単独内閣である。犬養内閣で注目すべきは、大蔵大臣の高橋是清である。高橋は組閣直後に金輸出を再禁止し金兌換も停止した。もう一つ注目すべき事は陸軍大臣に荒木貞夫が就任した事。陸軍中堅層の宿願の実現だった。犬養内閣は翌年の2月に総選挙を実施する。政友会は301名という空前の多数を獲得した。民政党は146名。

 1932年1月末に上海事変(第一次)が起きる。上海で日蓮宗僧侶が殺害される事件がきっかけだが、陸軍の田中隆吉少佐による謀略であった。戦後、田中自身が認めている。上海で戦闘が行なわれている頃、満州では関東軍による「満州国」建国の動きが進んでいた。1932年2月に、関東軍が工作して集めた地方の有力者から成る東北行政委員会が独立を宣言、3月1日に溥儀を執政とする「満州国」の建国が宣言された。建国宣言を急いだのは、国際連盟のリットン調査団が来る前に「建国」の既成事実を作るためだった。

 三月事件、十月事件は未発に終わったが、1932年初めに、血盟団事件と呼ばれるテロ事件が発生。2月9日に井上準之助前蔵相が、3月5日に三井合名理事長の団琢磨が、いずれも拳銃で射殺された。血盟団グループが検挙された後、1932年5月15日、海軍青年将校の三上卓らは首相官邸を襲い、犬養首相を射殺した。

 西園寺は5月22日に海軍大将の斎藤実を総理大臣に奏請した。高橋蔵相と荒木陸相は留任した。不況の克服と陸軍の動向が政局運営の焦点だった。

 満州事変勃発後に、様々なメディアによる報道が国民の熱狂的な支持を創り出していた。報道の中で使われた「生命線」という言葉が最も効果的に機能した。松岡洋右が1931年1月の衆議院本会議の議会演説で使ったのが有名である。この年の流行語になった。

 世界恐慌は1934年に収束するが、世界経済に大きな変化をもたらし、ブロック経済的な傾向が支配的になる。日本は1932年から景気回復に入り、かつてない経済発展を迎えた。高橋是清は、円の為替レート低下を放任、低金利を維持し、財政支出を激増させた。政府支出の膨張は、満州事変費を中心とする軍事費、時局匡救費という名目の不況対策の公共投資であり、日銀引き受けによる赤字国債の発行という新手法が取られた。工業生産の水準は飛躍的に増大した。この時期、軍需産業を足場に、「新興財閥」が急速に成長した。日本産業(日産)、日本窒素肥料、昭和電工、理化学研究所(理研)、中島飛行機などである。

[日産コンツェルン](ウィキペディアより)
 日本の十五大財閥の1つ。鮎川財閥とも呼ばれる。日立鉱山(久原鉱業、日本鉱業、ジャパンエナジー、新日鉱ホールディングスを経て現在のJXホールディングス)を源流として、機械・銅線部門を独立させての日立製作所などを加え、持ち株会社・日本産業のもとにコンツェルン化した戦前の財閥。戦後は、その自動車部門であった日産自動車が日産の名を残す後継企業としては最も大きいため、現在は同社のグループのみを指してを日産グループと呼ぶことが多い。

by utashima | 2013-12-04 19:23 | 読書 | Trackback | Comments(0)


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