人気ブログランキング | 話題のタグを見る

『政党政治と天皇(日本の歴史22)』(伊藤之雄著)の第1章

第一章 大正政変

 明治天皇が満59歳で永眠した後、直ちに皇太子嘉仁(よしひと)が32歳で即位し、1912年7月30日から大正と改元された。明治天皇は、元来の保守的な考えを少しずつ改め、伊藤を理解し、藩閥内部の対立や藩閥と民党の対立を調整する能力を身につけ、立憲国家の発展に大きく貢献した。

 新天皇の嘉仁は、幼児に脳膜炎・百日咳、13歳の頃にチフス、16歳の頃に結核性肋膜炎・肺炎などに罹り、成年の頃になっても学業が遅れていた。ドイツ人医師ベルツは、日本政府から求められて嘉仁を診察のため、1908年に再来日していた。

 1911年秋に辛亥革命が始まり、翌年2月に清朝が滅亡。桂らが懸念したのはアメリカの動きだった。日露戦争の講和を斡旋した親日派のルーズベルト大統領は日本が移民を自主的に制限すれば、交換として日本の満州での優越権を認めて良いと考えていた。しかし、次のタフト大統領は満州への介入を強めてきた。

 護憲運動は1913年2月にかけてピークとなる。護憲運動とは、藩閥勢力や官僚系勢力に対し、衆議院(国民を背景とした政党)の力を伸ばそうという運動である。2月9日の第3回憲政擁護大会は両国国技館に1万3000人以上の聴衆を集めた。そして数万の群衆が議会を包囲した。2月11日未明まで、警察署・交番や政府系の国民新聞社などを襲い、焼き打ちを行なった。2月11日、第三次桂内閣は組閣以来53日で辞職した。1912年12月の西園寺内閣の総辞職から桂内閣の総辞職までを「大正政変」という。桂は激しいストレスにより胃ガンに冒された。桂は1913年10月に65歳の生涯を終えた。

 桂太郎は、1848年に長州藩士の子として生まれ、騎兵隊に参加、戊辰戦争にも従軍した。明治3年からドイツに3年間留学し、帰国後、山県のもとでドイツ式陸軍の建設に努めた。明治34年に念願の首相となった。日英同盟を結び日露戦争を指導し、戦勝の後、4年半務めた首相職を辞任。明治天皇の信頼も厚くなり、伊藤博文と並ぶまでになった。これまで桂は山県に従う子分とみられて評価は高くなかった。しかし、近年、桂などの残した史料に則して再評価が行なわれ、桂は、陸軍など山県系官僚閥の利害と異なっていることが明らかにされている。
by utashima | 2013-08-02 10:52 | 読書 | Trackback | Comments(0)


<< 『政党政治と天皇(日本の歴史2... 『明治人の力量(日本の歴史21... >>