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『維新の構想と展開(日本の歴史20)』(鈴木淳著)の第6章

第6章 憲法発布

 明治22年2月11日、江戸城あらため宮城で憲法発布の儀式が行なわれた。江戸城西の丸の宮殿は明治6年に火災で焼失し、その後天皇は赤坂の現在の迎賓館を仮皇居とした。新たな宮殿は明治21年10月に落成し、名称は「宮城(きゅうじょう)」と定められた。
[私の記憶]
 私が九州大学を卒業し、東京大学大学院に進学した時(1974年)、4月に私の両親が東京見物を兼ねて東京に出てきた。電車で皇居の近くを走っていた時、父は「きゅうじょう」という言葉を使った。私の世代は「皇居」が一般的であり、その時は後楽園球場の事を言っているのかと思った記憶がある。戦前の教育を受けた人は、「宮城」と言ったようだ。

 式典の後、鳳凰の間で枢密院議長の伊藤博文に旭日桐花大綬章を親授し、夜の宴会では、枢密院書記官井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎に憲法取調委員として特別の御沙汰があった。憲法は、伊藤博文を中心に彼らが作った。伊藤は、明治15年に憲法調査のためにヨーロッパに赴き、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世から話を聞き、法学者グナイスト等から講義を受けている。

 伊藤は明治16年に帰国すると、宮中改革と華族制度の整備に取り組んだ。明治17年に伊藤は宮内卿となり、宮中で欽定憲法の調査を進める体制を作った。伊藤は、公・侯・伯・子・男の5つの爵位からなる華族制度を設けた。

 続いて、行政の体制強化が検討され、明治18年12月に伊藤を内閣総理大臣とする内閣制度が発足した。内閣制度は、皇室と行政部の分離を徹底するものであり、政治上の責任が天皇に及ばないようにする一方、天皇の意向に反してでも行政部の決定で国政を運営できるようにした。

明治22年2月5日、憲法、皇室典範、議院法、衆議院議員選挙法、貴族院令が確定された。但し、沖縄県への衆議院議員選挙法の適用は明治45年から、この時除外された宮古、八重山への適用は大正8年からであった。

 北海道は札幌、函館、根室の三県が置かれていたが、明治19年に三県を廃して北海道庁が置かれた。北海道から代議士が選出されるのは明治33年の選挙法改正で札幌・小樽・函館の三区に議席が与えられてからである。

 地方制度としては、明治21年に市制町村制が公布され、明治22年に施行された。これにより全国の町村を約7万から1.3万に集約した。戦後の昭和30年前後に3千数百の町村に再編され、平成の大合併に至る。

 明治21年の警察官吏配置及勤務概則により、全国1万以上の行政村に1つずつの駐在所が置かれた。

 憲法発布を記念して、大赦が行なわれた。540名の政治犯が釈放された。公民権も回復され、翌年の総選挙で議員に当選する者も多かった。

 伊藤博文は、1862年に山尾庸三と共に、幕府の和学講談所御用掛の塙忠宝を暗殺している。塙は著名な国学者の塙保己一の四男であり、当時廃帝の故事を調べていたとの噂があった。1868年1月の明治天皇の元服を祝賀する大赦で、伊藤の罪は消えた。
by utashima | 2013-03-08 17:13 | 読書 | Trackback | Comments(0)


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