『天下泰平(日本の歴史16)』(横田冬彦著)の第2章

第2章 「鎖国」---虚構の華夷秩序

 関ヶ原戦後の家康時代の対外関係は、朝鮮侵略の戦後処理を行ない、明との国交を回復する事が主眼であった。対明交渉の窓口として、対馬・朝鮮ルートと薩摩・琉球ルートがあった。

 第一のルートで交渉を始めたのは、対馬の宗氏であった。宗氏にとって、朝鮮交易の再開は死活問題だったからである。幕府と朝鮮の言う事をそのまま取り次いだのでは交渉が進まないので、宗氏は家康の国書を偽造して朝鮮に送り、朝鮮からの国書も改竄した。

 第二のルートは島津氏を媒介とした。幕府は、琉球王尚寧が明との仲介を拒否したため、島津氏の琉球侵攻を認めた。1609年、島津軍は1ヶ月で琉球を制圧。幕府は琉球の明への朝貢も認めた。しかし、琉球出兵は明の強い疑念を呼び、対明交渉は破たんする。

 ヨーロッパでは1588年にスペインの無敵艦隊がイギリスに敗れた頃から新教・旧教勢力のバランスが変わり始める。イギリス・オランダが東アジアにも進出し、スペイン・ポルトガル船の襲撃を繰り返した。家康の朱印状を得た朱印船も東アジアに展開していた。岡本大八事件(1609年から1612年にかけて発生した岡本大八と大名有馬晴信との贈収賄事件。両者ともキリシタン。岡本大八は本多正純の与力であった。)を契機に、1612年8月、家康はキリシタンを一般庶民に至るまで全面的に禁止した。高山右近などキリシタン大名で棄教しなかった者や宣教師たち148名が長崎に集められ、マカオ、マニラに追放された。

 大坂の陣が終わった後、1616年、秀忠はキリシタンを百姓に至るまで禁止し、ポルトガル・イギリスの寄港地を長崎・平戸に限定した。1636年には長崎の有力町人たちに築かせていた出島にポルトガル人を収容した。キリシタン摘発のため、訴人への報償銀制度や五人組・十人組による相互監視も採用された。この頃から家族の出生・死亡・婚姻・養子・奉公などを把握するようになる。こうして、日本中全ての人の赤ん坊から墓場までを登録する、世界でも稀にみる制度が出来上がりつつあった。住民を家単位の戸籍として登録するのは、日本と韓国(日本の植民地時代に導入された)だけである。(補足:2008年1月1日、改正韓国民法が全面施行された。この法律の施行により、韓国の戸籍制度は廃止され、新しく家族関係登録簿制度がはじまった。)

 1637年10月24日、島原半島有馬村で村民が礼拝していた所へ、松倉藩士が家老の命で踏み込み、山吉と角内の二人の百姓を逮捕。逮捕によって興奮した人々は、幾つかの村で代官を殺害した。山吉と角内は、天草四郎から授けられてキリシタンになっていた。天草四郎は、キリシタン大名小西行長の旧臣の益田甚兵衛の子。10月24日に蜂起した一揆は、26日には城下を焼き払い、島原城を攻撃。2日間の包囲の後、玉薬が尽きて撤退。天草でも蜂起が始まり、富岡城を総攻撃したが、やはり玉薬をうちきり、城を落とせなかった。11月23日、全軍が原城に立て籠もる。

 江戸に一揆の報が届いたのは11月8,9日頃。上使として板倉重昌と石谷貞清が派遣される。上使は12月5日に島原に到着。それまでは、九州の諸大名は、事態の推移を見守るしかなかった。1635年の武家諸法度で、幕府の許可なく他国へ軍隊を出すわけにはいかなかった。11月27日には老中松平信綱と戸田氏鉄が二度目の上使として派遣が決まる。12万人以上の軍隊が原城を包囲する事になる。

[原城と島原城](ウィキペディアより)-----------------------------------------------
 原城は、1496年、日野江城の支城として有馬貴純によって築かれた。有馬氏が日向国延岡城に転封となった後の1616年に松倉重政が日野江城に入城するが、一国一城令の影響もあり不便な日野江城を放棄し、島原城を築城した。1624年に完成した。この際に原城も廃城となった。
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 2月27日から原城の総攻めが開始され、徹底的な皆殺し作戦が展開された。幕府側の損害も大きかった。1639年7月、ポルトガル船の来航が全面禁止された。1641年、ポルトガル人が追放された出島に、オランダ人が入った。

 朝鮮との関係は宗氏による国書改竄によって成り立っていたが、1633年から1635年に柳川一件という事件が発生。柳川氏は藩主宗氏の家臣であり、朝鮮関係の実際の業務を担当していた。柳川氏は幕府にも目を掛けられており、藩主宗義成と対立するようになる。そして、柳川調興が宗氏による国書改竄を告発した。1635年3月、家光は江戸城に御三家以下諸大名を臨席させた上で宗氏と柳川氏を対決させ、柳川調興を有罪とした。宗義成には老中の下で朝鮮外交実務を管掌させることとした。この時期のお家騒動は、重臣を処罰して藩主の宗主権を強化する方向で解決された。

 遡って1625年、天海の建議で、江戸上野忍岡(しのぶがおか)に東叡山寛永寺が創建された。比叡山延暦寺(延暦の年号を冠し、平安京の鬼門に位置して王城を鎮護)にならって、寛永の年号を冠し江戸の鬼門にあって幕府を守護する新しい宗教的権威中枢が東の叡山として創出された。

 1644年、明王朝は李自成の乱によって倒れる。しかし、李自成軍は清と明の遺臣の連合軍と激突して大敗。慌てて北京を逃げ出した。40日と言う短い天下であった。その後、清が都を北京に移した。その後も明の一族は南明政権として抵抗する。1645年、南明政権は日本に援軍3000の派兵を要請。幕府は相談を重ねたが出兵を拒否した。1646年10月、福建陥落。
by utashima | 2011-10-25 18:00 | 読書 | Trackback | Comments(0)
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