第2部の序章 琉球という主体の登場
首里城は、天守閣や濠を持たず、日本の江戸城や大阪城などとは変わった城と感じる人が多い。しかし、視野を東アジアや東南アジアまで広げると、首里城に対する評価は一変する。北京の紫禁城や韓国に残る朝鮮王国時代の宮殿などを見ると、日本の城の方が異様な存在となる。
首里城は、15世紀初頭から1879年に沖縄県が設置されるまでの約500年間、沖縄の島々を統治した琉球王国の拠点であった。中国文化を取り入れて首里城を作った。首里城が歴史にその姿を現わし、統一王国の拠点としての役割を発揮し始めるのは室町時代初期である。
中世に出現した琉球王国は、日本の中世国家とは明確に区別される独自の存在であった。また、琉球王国は、中国国家の実質的な支配を受けたという事もない。中世の琉球王国は、東アジア世界において独自の自立した国家だった。
もともと沖縄の島々に住んだ人々は、日本語の原形(
日本祖語)を用いる人たちであった。弥生時代と遣唐使の時代(630年~894年)の間のある時点において、
日本祖語から本土方言(狭義の日本語)と琉球方言(琉球語)への分化が起こった。沖縄の島々の遺跡から大量の縄文式土器が出土しており、沖縄も縄文文化圏の一環に属していた。古墳時代になると日本の影響は極めて小さくなっていた。(沖縄の島々には古墳が全く存在しない。)
近年、奄美の
喜界島(きかいじま)の
城久(ぐすく)遺跡の発掘が進み、画期的な問題が提起され始めた。古代末期から中世初頭にかけて、ヤマト国家の拠点である大宰府の出先機関が喜界島に存在した可能性があり、考古学上の知見の見直しが行なわれている。
日本が室町時代を迎える頃、琉球王国が誕生し、首里城を拠点とする統治体制がひとまず樹立された。首里城の王は、室町将軍に何度も使節を派遣し、日本に対して安定的な外交・貿易関係を求めた。