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『蒙古襲来と徳政令(日本の歴史10)』(筧 雅博著)の第1章

第1章 13世紀半ばの鎌倉

 150年余り続いた鎌倉時代の頂点は、執権北条時頼が出家した年の1256年頃である。由比ヶ浜は強い西風のために難渋する船が相次いだが、半世紀余りの間、港を作る試みはなされなかった。資材や金は用意できても、作業人が集まらなかったらしい。和賀江の津の生みの親は、鎮西からやって来た旅の僧であった。往阿弥陀仏(おうあみだぶつ)と呼ばれている。往阿弥陀仏のもとに技術者をはじめとする人々が集まった。往阿弥陀仏の申請に対し、執権泰時は歓喜して協力した。和賀江の津は、幕府の用意した資材と、由比ヶ浜を往反する何万という人々の自発的な働きにより成ったとある。鎌倉大仏の建立も、全く同じ形をとって為された。施主は名越北条氏であるが、いっさいの作業は、勧進聖 浄光を中心として行なわれた。北条氏と勧進上人の組み合わせは、その後も日本各地で発生した。

 1257年8月、大地震が発生。若宮大路のいたるところが裂け、水が湧き出した。青い火焔が地中から噴き出した所もあった。火災も多かった。若宮から前浜に至る民屋が全て灰燼に帰す大火災が、鎌倉中後期に4~5回発生している。

 平安時代末から日本に大量の銅銭が中国から齎された。鎌倉では、銅銭を鋳つぶして鐘や大仏を作る事が行なわれた。人の手から手へ渡ってゆく銅銭が、鐘や仏像に形を変える事に、鎌倉の人々は大きな意味を見ていた。

 北条時頼には5人の男子がいた。長子の宝寿丸(後の式部大夫時輔)が1248年に生まれた。時輔の母は将軍家に仕える女房の讃岐局である。しかし、時頼は連署重時の婿になっており、重時の娘の生む子が北条嫡流家の次の当主になる事が誰の目にも明らかであった。時輔の誕生は必ずしも祝福されなかった。1251年、重時の娘が男子を生んだ。正寿丸(後の時宗)である。時輔は、1272年に時宗の命により討たれた。

 この頃の様子は、2001年に放送された大河ドラマ『北条時宗』を見ていたので、映像として覚えている。
by utashima | 2010-03-28 17:04 | 読書 | Trackback | Comments(0)


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