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『武士の成長と院政(日本の歴史07)』(下向井龍彦著) 第4章(3)

第4章 武家の棟梁の形成(その3)
 本記事では、前九年の役の後から、後三年の役を経て、奥州藤原氏が栄えるまでを記す。

 1070年、鎮守府将軍の清原武則の孫の真衡(さねひら)の力により、北方夷狄の地も王朝国家の版図になる。この勲功により、真衡は鎮守府将軍に任じられる。この頃の奥羽は安定していた。しかし、真衡は清原氏の庶流(分家)であり、主君のように振る舞う事に対し、清原氏の他の家系の反発がくすぶっていた。真衡には実子がなく、平氏の一族の海道小太郎成衡を養子にし、成衡の妻に、源頼義の娘を迎えた。真衡一族の安定を図るためである。

 1083年、成衡と頼義の娘との婚儀の場で事件が起きる。出羽国の吉彦秀武(きみひでたけ)は、武則とは母方の従兄弟であり前九年の役では一陣の主将を務めたほどであるが、真衡から従者として扱われていた。秀武が祝いの品を持参したにもかかわらず、真衡は囲碁に興じて無視した。腹を立てた秀武は、品(砂金)をぶちまけて出羽に帰った。真衡は直ちに軍を出羽に進めた。これが、後三年の役の始まりである。秀武は、清衡と家衡を味方に付ける。清衡は安倍氏とともに頼義に討たれた経清の子である。母は経清の死後、武則の子武貞の妻となり家衡を生む。真衡と家衡は異母兄弟、清衡と家衡は異父兄弟である。

後三年の役(1083-1087年)
 1083年、源義家が陸奥守として着任する。真衡は義家を饗応した後、秀武の討伐に向かう。その隙に真衡館を襲撃した清衡と家衡は、義家に撃退され、義家に投降した。一方真衡は途中で急死。義家は、三代にわたって清原惣領家が相伝してきた奥6郡司職を召し上げ、三群ずつ清衡と家衡に与えた。今度は、この両者間で緊張が生じる。

 1086年秋、義家は任終年を迎えていた。義家は、清衡と家衡の悪い関係を利用し、家衡を挑発し、清衡を攻める様に仕向けた。家衡は、清衡館を攻め、清衡の妻子を殺害する。義家のこの挑発は、陸奥守の重任を狙ったものであった。義家は、1087年秋、坂東諸国の武士を大量に動員して、家衡を攻撃。11月、兵糧攻めまでして、やっと家衡達の首を取った。後三年の役は、それまでの戦争以上に惨たらしい殺戮と処刑が行なわれた。

 政府は、義家の請求に対し、後三年の役を私合戦と断じ、追討官符を出さない決定をした。陸奥守の重任もなかった。1098年、義家はようやく白河院の特別な配慮により受領功過定にパスしたが、この権力のない10年間のために、武家の棟梁としての勢力は弱まった。

奥州藤原氏
 家衡らの所領は清衡が独占する事になった。清衡は、それまでの清原姓から、父の姓の藤原に変えた。清衡は俘囚の主の地位を受け継ぎ、陸奥出羽押領使に補任され、奥羽全域の軍事的支配者となる。11世紀末頃、清衡は、衣川関の南の平泉に館を建設し、陸奥の南端から北端まで結ぶ「奥大道」を整備して、平泉を奥羽の政治支配と北方交易、京への貢納物集積の拠点にした。
 2度の悲惨な戦争の後、平和な世界を求めて、初代清衡は、平泉に中尊寺を建立、二代基衡は毛越寺を、三代秀衡は無量光院を造った。
by utashima | 2009-11-01 11:48 | 読書 | Trackback | Comments(1)
Commented by hirota at 2009-11-06 13:06 x
やはり放送大学TVで聞いたことだけど、鎌倉時代までの武士は凶悪なゴロツキ同然なのが多かったらしく、一日一つは生首を見ないと調子が悪いとか通行人を男女かまわず捕まえて殺すとか殺伐とした逸話が残ってるそうだ。
領民に慈悲を持てとか言い出すのは足利時代かららしい。(それを言った人は失脚しちゃうけど)


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