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『武士の成長と院政(日本の歴史07)』(下向井龍彦著) 第4章(2)

第4章 武家の棟梁の形成(その2)

 本記事では、前九年の役の概要を記す。

前九年の役(1055-1063年)

 1055年冬、頼義は最後の府務(鎮守府管内の官物収納)を無事済ませ国府への帰路についた。途中、阿久利(あくと)河付近で、藤原光貞の従者が何者かに殺傷された。安倍時頼の長男貞任が、光貞の妹を嫁に欲しいと申し出た時、光貞が「妹を俘囚に嫁がせる事はできない」と断った事があった。これを恨んでの仕業に違いないとして、頼義は貞任の引き渡しを要求。頼時はこれを拒否し、衣川関を封鎖する。これが、前九年の役の発端である。この事件の真相は、陸奥守を重任したい頼義が、陸奥国に逗留し続ける口実に仕組んだ謀略だったらしい。更に4年間、陸奥守を務めて稼ぎたかったようだ。

 政府は、1056年8月、頼義に頼時追討宣旨を下した。衣川関を攻める頼義軍の中に頼時の娘婿の藤原経清もいた。この経清は奥州藤原氏の祖である。しかし、頼義軍の内部分裂(経清は頼時側に逃れた)から追討を一旦停止した。12月、頼義が陸奥守に重任される。頼義の目的は達成されたが、その後、泥沼の長期戦・殺戮戦にエスカレートする。

 1057年7月、頼義は政府に再び頼時追討宣旨を要請。頼義は今回は下北半島の夷狄の主で頼時とは同族の安倍富忠に協力を求めた。それを知った頼時は、富忠に頼義への加勢を思いとどませるために富忠のもとに向かう途中に富忠側の流れ矢で死去。貞任ら頼時の子達は衣川関で頼義に抗戦する。

 頼義は、今度は貞任追討官符を要請、それを得て11月に坂東武士を動員して衣川関に挑む。しかし、風雪の中、寒さと飢えに苦しんだ征討軍は、多くの戦死者を出して逃げ帰る。この合戦に大勝した安倍氏は、頼義の陸奥守の任期を終える頃まで、陸奥を支配した。

 1062年、頼義は、出羽山北三郡の俘囚の主、清原光頼とその弟武則の協力を取り付ける。その結果、頼義側は、殆どが清原氏の軍勢となり、清原氏による、安倍氏打倒・奥6郡の乗っ取りに変わった。征討軍は安倍氏を破り、藤原経清、安倍貞任は捕えられて処刑された。1063年2月、清原武則は俘囚の主としては異例の鎮守府将軍に任命された。

 前九年の役は、頼義が、安倍氏による奥6郡の支配を解体しようと挑発して始めた侵略戦争であった。しかし、途中で清原氏の援助を仰がざるを得ない事態になり、清原氏が安倍王国を吸収して更に巨大な自治支配が奥羽に登場する。頼義は、上洛後、郎等たちの恩賞獲得に奔走し、坂東武士に棟梁として仰がれる。
by utashima | 2009-10-31 17:19 | 読書 | Trackback | Comments(0)


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