『歌島昌由の近況』ブログの目次

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 ブログ・システムは目次機能を持っておらず、過去の記事を読む場合は不便です。そこで、本ブログでは、2段階の目次ページを用意しました。

・このページは、このブログ全体の目次です。
・以下に記した各カテゴリ名をクリックすると、そのカテゴリの目次にジャンプします。そこで、読みたい記事のタイトル名をクリックして下さい。その記事を読む事ができます。

1. 宇宙機の軌道設計/ 解析
2. 宇宙開発トピックス
3. 歌島姓・尾道
4. 省エネルギー
5. つくば近傍探訪記
6. パソコン
7. 映画・ドラマ
8. 読書
9. 読書2
10.ブログ作成の経過
11.囲碁
12.イベント

# by utashima | 2014-12-31 23:59 | 目次 | Trackback | Comments(2)

風呂・洗面所のリフォーム

 我が家は、1995年3月に新築してから、19年が経過した。よって、風呂場及び隣接する洗面所のリフォームを実施した。リフォームも家を建てて貰ったへーベルハウスにお願いした。へーベルハウスに相談する前は、工事に要する日数が分からず、もし1週間近くを要するようならば、その間の入浴をどこでしようか、と考えたりしていた。

 へーベルハウスと相談の過程で、工事期間は3日間、3日目の夕方には風呂に入れるので、実質2日間だけ風呂を我慢すれば良いと分かった。

 4月3日(木)~5日(土)で、リフォームして頂いた。初日は1日雨となり、工事への影響を心配したが、翌日からは天気も回復し、無事予定通りに終了できた。

 今までの風呂との違いは、
   ①天井に暖房乾燥機を付けた
   ②浴槽が二重になっていて保温効果がある
   ③床が滑り難く弾力性がある
   ④浴室の窓を二重窓にした
   ⑤手摺を増やした
などである。風呂も日々進歩している。
# by utashima | 2014-04-05 18:18 | イベント | Trackback | Comments(0)

『日本大地震』(斎藤茂吉著)

 1929年10月に「改造」(*)に初出の表記文章が、青空文庫にあったので読んだ。
(*)「改造」は、戦前の日本で発行されていた、社会主義的な評論を多く掲げた日本の総合雑誌。1919年(大正8年)創刊、1955年(昭和30年)廃刊。

 ウィキペディアによると、斎藤茂吉は、1921年10月から精神病学研究のため欧州留学に出発。11月1日神戸を出航、香港、シンガポール、マラッカ、コロンボ、スエズから陸路カイロ往復、マルセイユ、パリを経て12月20日ベルリンに到着。1923年(大正12年)に学位論文「麻痺性痴呆者の脳図」を完成させ、イタリア旅行を経て7月、ミュンヘン大学に転学している。

 表記著作は、ミュンヘンに到着後から始まっている。住む部屋探しに苦労している記述がある。南京虫が出ない部屋を探していたようだ。ちょうどその頃、夕刊の“Die Erdbebenkatastrophe in Japan”と題した日本震災の記事で関東大震災を知る。斎藤茂吉は以下の様に記している。
 上海電報に拠よると、地震は九月一日の早朝に起り、東京横浜の住民は十万人死んだ。東京の砲兵工廠は空中に舞上り、数千の職工が死んだ。熱海・伊東の町は全くなくなつた。富士山の頂が飛び、大島は海中に没した。云々である。

 更に以下の様に書いている。
 私も部屋のことで斯う愚図愚図してゐてはならぬと思ひ、けふも数軒部屋を見、遠くて不便であるが一間借りるやうに決心した。私はけふはもう教室に行く勇気はなかつた。夕刊を読むと日本震災の惨害はますますひどい。私等は何事も手に附かず、夕食後三人して麦酒を飲みに行つた。酒の勢を借りてせめて不安の念を軽くしようとしたのであつた。

 9月13日の夕方、斎藤茂吉に電報が届き、家族の無事を知った。そして、当分ミュンヘンに留まる決心をし、1924年末に帰国した。

# by utashima | 2014-04-04 11:49 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

『大正十二年九月一日の大震に際して』(芥川龍之介著)

 夏目漱石の『こころ』を読んだので、次は何を読もうかと、青空文庫を眺めた。芥川龍之介の作品の中に、表記の『大正十二年九月一日の大震に際して』があったので、読んでみた。二、三十年以内に首都圏に大地震が発生する可能性が高いと言われており、1923年の関東大震災を実際に体験した芥川龍之介の文章を是非読んでみたかった。

 龍之介は地震発生直前の1923年8月に鎌倉を旅して8月25日に東京の田端に帰っている。鎌倉に居た時、以下の記述がある。
 
藤、山吹、菖蒲と数へてくると、どうもこれは唯事ではない。「自然」に発狂の気味のあるのは疑ひ難い事実である。僕は爾来人の顔さへ見れば、「天変地異が起りさうだ」と云つた。

 関東大震災は、龍之介が東京に帰ってから約1週間後に発生している。上記の予想は、龍之介自身も余り信じていなかったようだ。

 龍之介は、東京に戻ってから風邪をひいている。8月29日に38.6度の発熱だった。家族全員が風邪の状態だった。9月1日の地震発生当日の記述は、以下の通り。
 午ごろ茶の間にパンと牛乳を喫し了り、将に茶を飲まんとすれば、忽ち大震の来るあり。母と共に屋外に出づ。妻は二階に眠れる多加志を救ひに去り、伯母は又梯子段のもとに立ちつつ、妻と多加志とを呼んでやまず、既にして妻と伯母と多加志を抱いて屋外に出づれば、更に又父と比呂志とのあらざるを知る。婢しづを、再び屋内に入り、倉皇比呂志を抱いて出づ。父亦庭を回つて出づ。この間家大いに動き、歩行甚だ自由ならず。屋瓦の乱墜するもの十余。大震漸く静まれば、風あり、面を吹いて過ぐ。土臭殆ど噎ばんと欲す。父と屋の内外を見れば、被害は屋瓦の墜ちたると石燈籠の倒れたるのみ。

 田端付近では、屋瓦が落ちた事と石灯籠が倒れた事だけだったようだ。関東大震災は、神奈川県西部を震源とした地震であった。夜、東京方向を見ると、大いなる溶鉱炉を見るが如しと書いている。
 9月2日の夜は、龍之介は39度の発熱だった。
 廃墟東京を見て、龍之介は以下の様に書いている。
 
応仁の乱か何かに遇つた人の歌に、「汝も知るや都は野べの夕雲雀揚るを見ても落つる涙は」と云ふのがあります。丸の内の焼け跡を歩いた時にはざつとああ云ふ気がしました。

 この文章の最後では、古書の焼失を惜しんでいる。

# by utashima | 2014-04-02 00:33 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

夏目漱石『こころ』

 私は自宅では、2012年10月に購入した東芝のREGZA PC D732/T7(Windows 7)を使っている。数日前、何気なくPCに付属のソフト群を眺めていて、「BookLive! for Toshiba」というソフトに目が留まった。まだ使っていなかった。電子ブックを読む時に使うソフトらしい。起動してみると、無料の「青空文庫」の本も読める。なお、「青空文庫」の作品は、ブラウザでも読めるので、「BookLive! for Toshiba」を使う必要はない。でも、折角付属しているので、「BookLive! for Toshiba」で「青空文庫」の作品を読んでみる事にした。「BookLive! for Toshiba」を使い始めてまだ数日だが、その間に2回ソフトの更新があった。更新で良くなるのは良いが、更新後にPC再起動を要求されるのは困る。地デジ番組の録画機能が動いている事があるので。

 最初に読んだ作品は、夏目漱石の『こころ』。学生時代に読んだと思うが、殆ど覚えていないので、読み返した。最後の辺りに、友人Kの自殺の原因は、天と自分しか知らない・・・、といった記載がある。私は日頃思っている事だが、全世界の指導者達(特に政治家たち)には、「天は全てお見通し」という気持ちを持って、行動して戴きたい。
# by utashima | 2014-04-01 17:17 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

『日本の歴史』全26巻を読み終えて

 『日本の歴史』全26巻を2009年2月から読み始め、今日(2014年3月13日)読み終えた。5年掛かった。私は大学受験の社会の科目に日本史を取らなかったため、日本史の知識が不十分であり、60歳を前にして勉強し直したいという気持ちがあった。そして最初に手に取った本シリーズの第00巻が興味深く、それが全巻読破に繋がった。

 近年、近隣諸国との歴史認識問題や領土問題などが、新聞・テレビなどで度々報じられているが、本シリーズを読んで得た知識や考え方をベースに、自分の考えをしっかり持って行こうと思っている。

 本シリーズを読みながら、私が興味を持ったことを中心に、ブログの記事にして来た。その際、遺跡の場所などはGoogle Mapで探し、歴史資料もネットで見るように努めた。そしてブログ記事の中に、それらへのリンクも貼って行った。最近のネットの普及で歴史の勉強も便利になった。

 今後は、世界の歴史書を読んでみたいとボンヤリ思っているが、まだ何を読むか決めていない。
# by utashima | 2014-03-13 23:44 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

『戦後と高度成長の終焉(日本の歴史24)』(河野康子著)の第4章

第四章 政党再編への胎動---1972年~1993年

 1955年頃から始まった高度成長は、1970年代初頭に終わった。この間、日本経済は年率平均10%台の成長を遂げ、所得の平等化が進み、人々の間に中流意識が浸透した。1974年に実質GNP成長率が-0.5%となり(第一次石油危機の影響)、1973年~1990年にかけての年平均成長率は約4%になった。10%成長の時代は終わった。
 こちらのサイトからの経済成長率グラフを以下に掲載する。

 高度成長の終焉の要因として、吉川洋氏は人口の大量移動現象を挙げている。農村から都市への人口の大量流入が消費を押し上げて成長の要因となり、1970年代に入って都市への人口流入が終わり、成長率が低下した、という見方である。
 1973年・1978~1979年の二度の石油危機を経て、1980年代に入り、日本経済の対外環境は大きく変わった。固定相場制から変動相場制に変わり、1995年4月には瞬間的に1ドル79円台をピークとする円高に見舞われ、円の価値は一時的に約3倍まで上昇。株価は1989年12月に3万8915円のピークを記録したが、1990年10月には2万円を割る事態となった。バブルの崩壊である。

 第一次田中内閣期の1973年度予算は、超大型予算となった。列島改造予算として公共事業関係で+32%、社会保障関係で+29%。1974年の自民党大会は「福祉国家建設」を掲げた。

 対中国外交で成果を挙げた田中首相は、1974年1月の東南アジア歴訪で、対日感情の悪化を身を持って認識させられた。バンコク、ジャカルタで田中首相は反日デモに取り巻かれた。要因は、1970年代に入り急激に拡大した日本企業の進出であった。タイ・インドネシアなど各地で、氾濫する日本製品のボイコットが広がっていた。
 1975年4月、南ベトナムのサイゴンが陥落し、南北ベトナムが統一され、ベトナム戦争が終結した。1977年8月、マニラで福田首相が提唱した「福田ドクトリン(マニラ・ドクトリン)」は、嚆矢であった。「福田ドクトリン」は、以下の内容であった。

  ①軍事大国とならず世界の平和と繁栄に貢献する。
  ②心と心の触れあう信頼関係を構築する。
  ③対等な立場で東南アジア諸国の平和と繁栄に寄与する。

 1971年8月のニクソンによる金・ドル交換停止宣言の後、12月にワシントンのスミソニアン博物館で、主要国蔵相会議・中央銀行総裁会議が開かれ、通貨交換レートの調整が行なわれ、2.25%の幅で固定相場制を維持する事が決められた。この時、円・ドル交換レートは、1ドル360円から308円に大幅に切り上げられた。しかし、この調整は安定せず、1973年2月に変動相場制に移行した。この状態が現在まで続いている。

 ベトナム統一の3年後の1978年、ソ連とベトナムの間に友好協力条約が結ばれた。ソ連のベトナム支援が、カンボジア問題に影を落とす。カンボジアは1976年4月にポル・ポト首相が就任。中国はポル・ポト政権を支援した。1978年12月にヘン・サムリン救国民族統一戦線がポル・ポト政権打倒を掲げて発足。これをベトナムが支援した。1978年12月から翌年1月にかけて、ベトナムがカンボジアに侵攻した。そして1979年1月にソ連とベトナムの支援の下、カンボジア人民共和国が成立した。これに対して、中国は同年2月にベトナムに侵攻、中越戦争となった。カンボジアは、この時期から1991年まで内戦状態となる。
 他方、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻は、1989年のソ連軍撤退まで10年間のソ連によるアフガニスタン支配をもたらした。

 ソ連の指導者にゴルバチョフが登場し、アフガニスタン撤退から半年後の1989年10月、東ベルリンでの演説で東欧政策(ブレジネフ・ドクトリン)の画期的な転換を表明した。翌11月、ベルリンの壁が崩壊し、12月にはマルタ島でブッシュ米大統領とゴルバチョフ議長との首脳会談が行なわれ、冷戦は終焉することになった。

 1988年12月の国会で消費税関連法案が成立し、1989年4月から3%の消費税が実施された。
 1993年の総選挙で自民党が過半数を割り、非自民八党派による連立政権(細川護煕を首班)が発足、1955年以来38年間続いた自民党の長期政権が終わった。

# by utashima | 2014-03-01 11:17 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

『戦後と高度成長の終焉(日本の歴史24)』(河野康子著)の第3章

第三章 変貌する戦後---1955年~1972年

1 保守合同の成果

 1955年2月の総選挙では、日本民主党が多数(185議席)を獲得。自由党は112議席だった。一般に保守本流という言葉は、池田・佐藤両政権期に代表される吉田茂の直系政治家を指すものとされる。しかし、上記の数字にも表れているように、自民党には吉田自由党からの連続性だけでなく、民主党からの連続性が強く受け継がれている。鳩山・石橋・岸政権期には民主党系の影響力が優位だった。民主党が自民党に政策的遺産として継承した理念とは、様々な格差の解消、いわば平等化と表現できるものであった。

 1955年11月に発足した第三次鳩山内閣では注目すべき政策的新機軸があった。政府レベルで初めて経済計画の正式決定(閣議決定)を行なった。鳩山内閣は発足直後から長期計画を経済運営の基本とする姿勢に転じ、1955年1月に「総合経済六ヵ年計画の構想」が閣議了解されている。これが1955年12月に閣議決定され、「経済自立五ヵ年計画」となった。この計画は雇用政策を重視していた。そして、1957年2月に発足した岸内閣期に「新長期経済計画」に発展され、高い成長率を維持しつつ「完全雇用」に接近する事が目標とされ、1959年の「国民所得倍増計画」に至る。完全雇用は、1958年~1961年の岩戸景気の中で実現に向かった。

 民主党から自民党へ継承されたもう一つの理念として、国民皆保険へと向かう社会保障政策がある。実は、戦前に既に健康保険法(1927年施行)と国民健康保険法(1938年公布)があった。健康保険法での加入者は国民の約3%だった。国民健康保険法は、戦争末期に空襲や疎開により基盤が失われた。選挙における有権者獲得手段として社会保障の充実が注目されたが、これは民主党系の政策理念として存在していた。そして、1958年に岸内閣の下で国民健康保険法が拡充され、市町村による国保の強制設立が実現。この基盤の延長上に、池田内閣期の1961年に国民皆保険が実現した。

2 外交の調整と自民党政治---日ソ国交回復と安保改定

 1954年12月、内閣首班指名で両派社会党は鳩山に投票し、翌日、鳩山内閣が発足。社会党はその後も、鳩山内閣期の日ソ交渉に支持の姿勢を取った。日ソ交渉では、自由党・民主党間で対立、保守合同後も新生自民党内部で対立を続けた。

 1955年から翌年にかけて合意された日ソ交渉は、平和条約締結には至らず、北方領土問題は懸案として残された。1956年10月の鳩山首相の訪ソにより、日ソ共同宣言がモスクワで調印され、日ソ国交正常化は実現した。その結果、1956年12月に日本の国連加盟が実現した。その後、シベリア抑留問題にも解決の糸口が開かれ、ソ連は抑留者の帰還を認める事になる。

[日ソ交渉の経過]
 ソ連は1951年の講和会議に出席しながら条約に調印しなかったが、これは失敗であったとの見方が強くなってきた。1953年にスターリンが死去し、平和攻勢に転じたソ連は、日本との国交回復を重視するようになる。

 1955年初め、国交回復の打診目的で、元ソ連代表部のドムニツキーが政府書簡を重光外相に届けた。重光に受け取りを拒否され、直接鳩山首相に届けた。鳩山はドムニツキーと会見し国交回復に意欲を示した。背景に、シベリア抑留者の帰国を求める世論があった。

 1955年6月から日ソ交渉が開始された。8月9日、ソ連全権マリク駐英大使から、歯舞・色丹の二島返還で妥協を図る提案があった。これに対して日本は8月30日、国後・択捉を含む四島の即時返還を求め、交渉は行き詰まった。この間の8月23日、重光外相は岸信介・河野一郎を伴い訪米。ダレス国務長官と会談。この会談後に外務省は、日本側全権に四島返還を主張するよう訓令を出した。1955年11月15日に自民党が結成され、党議として四島返還を求める事を規定した「日ソ国交の合理的調整」を正式決定した。この決定は、自由党系の主張に沿ってまとめられ、その後の日ソ交渉を制約した。

 1956年7月、訪ソした重光は、それまで四島返還を主張していたが、突然二島返還で妥結する方針に転換したため、自由党系議員から交渉中止を求める動きが強まり、政府は重光に交渉中止の訓令を出した。「重光豹変」と呼ばれる事態である。この真相は、必ずしも明らかではない。

 この頃、日ソ交渉に対する米国の意向が日本に伝えられた。1956年8月、ダレス国務長官は「日本が二島返還でソ連と妥協するのであれば、米国は沖縄の併合も辞さない。」と発言。9月に、米国務省から日本政府に、以下の覚書が伝えられ公表された。
  「対日講和条約第二条で日本が放棄した領土は、国後・択捉を含まず、国後・択捉は歯舞・色丹とともに日本固有の領土である。」


 1956年10月、鳩山首相自らモスクワを訪問、日ソ共同宣言に調印した。

[安保改定のプロセス]
 1951年9月に調印された日米安保条約は、以下の問題を持っており、不満足なものであった。
  ・米軍が、占領終結後もほぼそのまま残された。
  ・米軍基地は、条約上は日本を防衛する義務を負っていなかった。
  ・日本国内に内乱が起きた場合に在日米軍が出動できるとした内乱条項があった。
  ・事前の同意が無ければ、米国以外の外国軍隊に駐兵権を与えないという第三国条項があった。
  ・条約の期限が明示されていなかった。
 そのため、安保改定に向けた日本からの働きかけが、日ソ交渉と併行して始まる。

 鳩山内閣後の石橋内閣(1956年12月23日発足)に外相として入閣した岸信介は、石橋が病気で倒れた後、1957年2月に首相となり、第一次岸内閣を発足させた。

 1953年~1957年にかけて、在日米軍基地をめぐる被害の発生と紛争が相次いだ。石川県内灘における米軍試射場としての土地使用をめぐる住民の実力抵抗、1955年の東京都立川市(旧砂川町)における立川基地滑走路拡張工事の強行に伴う流血事件、1957年1月の群馬県相馬が原での日本人女性射殺事件(ジラード事件)など。これらの事件は、基地反対を掲げる社会党に対する有権者の支持を高めた。
 1957年6月、岸は訪米し、アイゼンハワー大統領と会談、安保条約の再検討を提案した。その内容は、米軍の対日防衛義務の明文化、米軍装備変更時(核兵器持ち込みを含む)の事前協議などであった。翌1958年2月から条約改定交渉が本格化する。1960年5月、自民党は新安保条約と関連法案の単独採決を行なった。1960年6月15日、国会周辺のデモ隊と警官隊との衝突の中、東大女子学生が死亡すると言う事態となった。参院でも自民党単独採決を行なって新安保条約を成立させた後、岸内閣は退陣した。

 1960年7月19日、第一次池田内閣が成立する。新安保条約では、旧条約の問題点を解消し、新たに事前協議制を設置した。

3 高度経済成長と開放体制への移行

 新安保条約の国会批准を待って岸内閣が退陣し、1960年7月、池田勇人内閣が発足。同年12月に池田内閣は、「国民所得倍増計画」を閣議決定した。

 日本は1952年8月にIMF(国際通貨基金)に参加、翌年にGATT(関税及び貿易に関する一般協定)に仮加盟、1955年にGATTの正式な一員となった。しかし、ヨーロッパ諸国は日本に対しGATT規約第35条を適用して対日差別を続けた。この第35条適用撤回のため、それぞれの国を相手に二国間交渉を行ない、1964年にヨーロッパ主要国による対日差別が撤回された。対日差別の理由の一つは、日本の低賃金労働であった。1959年10月の第15回GATT総会で、米国務次官が、日本に対する第35条適用を早急に撤廃するようヨーロッパ諸国に求めた。同時にこの総会では、日本に対する貿易自由化要求が強く出された。1950年代半ばから、日本は実質で二桁成長率を達成していた。1963年に自動車生産は120万台を超え、輸出は10万台を超えた。5年前と比べて、生産で7倍、輸出で10倍の伸びであった。

 1963年、日本はGATT12条国から11条国へ移行した。これは、国際収支上の理由で輸出入制限をしてはならないという義務を受け入れる事を意味した。1964年には日本はIMF八条国へ移行した。これにより、国際収支上の理由で為替取引制限を行なう事ができなくなった。1964年、日本はOECD(経済協力開発機構)に加盟した。これにより、日本が先進国クラブへ仲間入りしたとして注目された。この年の秋、東京オリンピックが開催された。

 1958年7月~1961年12月までの42か月間、「岩戸景気」と呼ばれた好景気が続き、1965年11月~1970年7月までの57か月間、「いざなぎ景気」と呼ばれた好景気が続いた。国民総生産は、1968年には実質で1960年の2倍を超えていた。1970年において日本の国民総生産は、米国に次ぐ世界第二位となり、国民所得(一人当たりドル換算)も英国とほぼ同水準となった。貿易収支も1968年以降は黒字が定着していた。

4 二党制の苦悩と多党化現象

 自民・社会の両政党が国会議席の大半を占める状況は、1960年代半ばには揺らぎ始めた。多党化の波が押し寄せた。二大政党の議席数減少は、先ず社会党に現れ、次に自民党に現れた。この変化の大きな要因は、民社党と公明党の出現である。社会党内の西尾派と河上派の一部が離党して1960年1月に民主社会党を作った。初代委員長は西尾末広である。社会党の分裂は、労働勢力の分裂と連動する。労働勢力の再編の結果、社会党と総評、民社党と同盟、という提携関係が形成された。1976年の総選挙で落選した江田三郎は、翌1977年3月に社会党を離党して社会市民連合(社市連)結成に向かったが、5月に死去。江田の死後、社会党を離党した田英夫らが社市連(菅直人らのグループも参加)に合流し、社会民主連合(社民連)となった。1960年代の国会は、雇用対策法・調整年金・健保特例法などの生活関連重要法案の審議が進んでいたが、社会党は、福祉国家という考えが資本主義の延命策であるとの批判的立場を取って、積極的な対応をしなかった。そして、社会党の議席は低落傾向をみせた。

 宗教団体の創価学会は、1955年頃から政界進出を試み、1962年に創価学会政治連盟を改称して公明政治連盟を立ち上げた。これを母体に、1964年に公明党が結成される。1969年には衆院で社会党に次ぐ第三党となった。1970年6月の党大会で新綱領を決定、国民政党を標榜して創価学会との分離を表明。1976年には自民党から新自由クラブが離脱。こうして、政党政治は二党制から多党化への変化を定着させた。

 1960年に池田内閣が国民所得倍増計画を決定し、「全国総合開発計画」が策定されて、太平洋ベルト地帯の各都市に石油コンビナートの建設が相次ぐ。三重県四日市市では1960年頃から重い喘息症状の人々が急増。これは工場群から排出される亜硫酸ガスや窒素酸化物が原因であった。1956年には熊本県水俣で有機水銀による中毒症状の患者が報告されている。公害に対して国よりも早く対応したのは、横浜市や東京都などの先進的な自治体だった。1967年8月、公害対策基本法が公布された。これには「調和条項」が盛り込まれ、企業の利益を損なわないような配慮が示されていた。「調和条項」に対する世論の反発は強く、1970年に公害対策基本法の改正が行なわれ、「調和条項」が削除された。四大公害訴訟(熊本水俣病・新潟水俣病・四日市公害・イタイイタイ病)の裁判は1970年代初めにかけて次々に結審、患者側の勝訴となった。1971年、環境庁が発足した。

 その後、健保・年金などの社会保障分野の課題が次々と政治の舞台に上がってくる。環境問題や社会保障問題に対して、自民党の対応は立ち遅れ、これが1970年代以降の自民党長期低落傾向の一因となる。

5 日米協調と地域外交

 日本が国連加盟を許された翌年の1957年に出された「外交青書」第一号は、以下の外交三原則を掲げた。外交青書は、現在日本が発行している白書の中で唯一「青書」と呼ばれているが、これは外交青書を作成し始めた当時、参考としたイギリス議会の外交委員会の報告書の表紙が青色であったので、これに倣ったもの(ウィキペディアより)。
  ①国連中心主義
  ②自由主義諸国との協調
  ③アジアの一員としての立場の堅持

 しかし、現実の対アジア外交は、多くの困難に満ちていた。戦後賠償を巡るアジア諸国との交渉は難航した。賠償額が折り合わなかった。フィリピン、南ベトナム、インドネシア、ビルマ(現ミャンマー)も賠償を要求した。これらの諸国からの請求総額は約300億ドルといわれる。ビルマとは1955年に妥結、インドネシアとは1958年、南ベトナムとは1959年に賠償交渉がまとまった。フィリピンとは1956年に賠償協定が調印され、1976年にようやく支払いが終結した。戦争終結後、賠償支払い終了までに20年以上が費やされた。

 池田内閣期に既に日韓国交正常化への取り組みが進められていた。社会党は、北朝鮮を除外して韓国との国交正常化を先行させるのは朝鮮半島の分断につながるとして反対した。日韓国交正常化は、米ラスク国務長官が1961年に訪日した時に、日本に求めた。ラスク長官は、韓国の対日賠償請求権問題の解決は、米国による対韓援助の前提条件であると発言。病気のため辞任した池田の後、1964年11月に第一次佐藤内閣が発足。その直後の1965年2月、椎名外相をソウルに派遣し、基本条約に向けての協議を進めた。日韓併合以来の旧条約は「もはや無効」という表現で清算し、請求権については、経済協力という形で有償(2億ドル)、無償(3億ドル)、民間信用供与(11億ドル以上)を行なう事で了解に達した。当時の韓国の国家予算は3.5億ドル、日本の外貨準備額は18億ドル程度であった。この日韓基本条約は1965年6月に東京で調印された。しかし、その批准国会は、自民党・社会党の全面対決となった。自民党は強行採決を図り、4日間にわたる徹夜国会で衆院を通過させ、参院では公明党を含む野党が退場する中、自民党と民社党のみで成立させた。結成から1年の公明党は、この国会では反自民の立場を明確にしていた。
 社会党は、日韓国会の翌年、階級政党としての立場を主張し、「日本における社会主義への道」を決定した。当時は、この新綱領を守る事が、社会党にとって次第に現実との接点を見失う結果になるとは、予想されていなかった。

 沖縄の法的地位は、1951年講和条約第三条と、講和会議でのダレス米代表とヤンガー英代表の演説により確認されている。具体的には、沖縄・奄美大島・小笠原諸島などの第三条地域に対し、米国が施政権を行使できるが、主権は日本に残されている事が認められていた。この第三条の規定は、沖縄の地位に関して、日米間だけの協議で決定可能と認められていた。そのため、日本は講和条約調印後の早い時期に日米間の取り決めが行なわれることを期待した。しかし、米側は、沖縄基地の戦略的重要性を主張する軍部の意向で、この取り決めに応じなかった。

 1953年12月、日米協定により奄美大島返還が実現した。これ以降、沖縄の基地建設は本格化した。1960年の安保改定の際、日本側は沖縄問題よりは条約改定を優先し、米側は、本土の米軍基地が縮小された結果、沖縄への基地機能移転が進み、沖縄の長期保有を考えていた。

 しかし、1961年に発足したケネディ政権が、60年安保での日本国内の反米感情に配慮してライシャワーを大使に任命した事は、沖縄問題を日米関係の安定化の観点から見直す事に繋がった。ライシャワー駐日大使の夫人は、元首相の松方正義の孫である。その後、国務省と国防省は特別研究グループを発足させ、軍部に対する説得を試み始めた。

 1964年に発足した佐藤内閣は、当初から沖縄問題に対する関心を持っていた。1965年1月に訪米した佐藤首相は、ラスク国務長官との会談で沖縄問題を話題にしている。1967年11月、第二次佐藤・ジョンソン会談で、「両三年内に」返還の期日を決定するとの合意に達した。なお、「両三年」とは2~3年という意味。この会談で、小笠原諸島の返還が合意された。1967年12月、臨時国会で佐藤首相は「非核三原則」を打ち出した。核兵器を「作らず」、「持たず」、「持ち込ませず」である。

 1969年1月のニクソン政権発足後、国家安全保障会議(NSC)で沖縄返還に伴う基地機能の変化について重要な決定が行なわれた。返還時期を1972年とし、返還時に沖縄基地の核兵器を撤去、その後は事前協議制を適用するという内容のNSC文書に大統領がサインした。注目すべきは、緊急時の韓国・台湾防衛に当たっては、事前協議制の適用を緩和するという了解を日本から取りつける事が代償となっていた。返還条件は1969年11月の佐藤・ニクソン会談で合意された。1971年6月17日、沖縄返還協定が調印され、1972年5月15日に返還された。

 1971年7月と8月に、ニクソン大統領は対外政策に関する大きな転換を行なった。日本へは事前の説明はなかった。1971年7月、ニクソンは早期の北京訪問と中華人民共和国との国交正常化方針を公表した。
 1951年の講和会議には中華人民共和国・中華民国の双方とも招かれず、日本は米英の取り決めにより講和後にいずれかの政府との間で講和・友好条約を結ぶ事となっていた。但し米国は中華民国との間で講和を結ぶ事を望んでおり、1952年4月、台湾国民政府との間で「日華平和条約」を結んだ。池田内閣期に入って、自民党の高碕達之助、中国の廖承志(りょう しょうし)が参加して貿易協定に調印。両名のイニシャルを取りLT貿易と呼ばれた。これにより、国民政府との間は悪化した。このような状況の時、1971年7月のニクソン・ショックが起きた。1972年2月にニクソンは訪中した。
 更に8月、第二次ニクソン・ショックが発生。米国は金とドルの交換停止決定を通告した。

 1972年5月の沖縄復帰式典を終え、7月に佐藤内閣が退陣、後継の田中角栄内閣が1972年7月に発足する。自民党内では、かねて吉田外交に対抗する意味で、松村謙三・田川誠一などの党内反主流派が中国との交流を進めていた。田中内閣発足の7月、田川は北京との間で田中訪中についての中国側の意向を確認している。公明党は、田中内閣以前から竹入委員長を中心とする訪中団が中国政府と接触し、周恩来からの親書を田中に取り次いでいる。その親書は、中国政府も田中訪中を歓迎する立場である事を表明していた。同時に以下の日中復交三原則を提示していた。
      ①北京政府を中国の唯一合法政府と認める。
      ②台湾を中国の一省と認める。
      ③日華平和条約を廃棄する。

 日本は三原則を受け入れ、1972年9月の田中訪中が実現する。しかし、共同声明作成は難航した。三原則の③について、日本外務省からの異論が強かった。「廃棄」ではなく、「自然消滅」とすべきとした。結局、「廃棄」を盛り込まず、台湾との外交関係は終了したとの大平外相の談話を北京での記者会見で発表する事で落ち着いた。最終的に日中平和友好条約が結ばれるまでには、長期の交渉を要した。条約は福田内閣期の1978年にようやく調印された。

# by utashima | 2014-02-22 21:59 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

『戦後と高度成長の終焉(日本の歴史24)』(河野康子著)の第2章

第二章 国際環境のなかの講和と安保---1949年~1955年

 1946年には米国政府内で、対日講和の検討が始まっていた。この頃、日本に対する懲罰的な講和が検討されていた。

 1948年から49年にかけて、米国の対日占領政策は徐々に変化した。西ヨーロッパは、ソ連不参加の下で、米国からのマーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)の受け入れを決定していた。アジアにおいて、中国の国民党・共産党の内戦は、1948年秋頃には共産党優位のもとで終結に向かいつつあった。

 1949年1月、衆議院で単独過半数を占める政党(民主自由党)が、初めて現れた。一方、社会党は議席数を大幅に減少させた。社会党・共産党は全面講和を提唱していたが、民主自由党政府(吉田首相)は単独であっても早期講和を選択する立場を表明した。
 1950年に吉田は、池田勇人を米国に派遣し、講和後の日本に米軍基地を残すことを日本側から容認し申し出るという内容の伝言を大統領特別顧問のドッジに伝えさせた。この内容は外務省にも知らされていなかった。池田が1956年に出した回想の中で初めて明らかになった。

 1950年にかけて、総司令部により日本共産党中央委員に対する公職追放が行なわれた。1945年秋に自らの手で解放した共産党に対し、総司令部は厳しい取り締まりに転じた。1949年には国鉄労組に対する人員整理が始まり、下山事件・三鷹事件・松川事件など、鉄道関係の不穏な事件が続いた。

 1950年4月、野党勢力は芦田均、三木武夫を中心とした国民民主党を結党。社会党と自由党の中間の政治を目指した。社会党、自由党(与党)、国民民主党の三党の間で、講和論争が繰り広げられた。国民民主党の若手議員の間では、全面講和と永世中立論が根強い支持を広げていた。しかし、芦田は永世中立と全面講和の非現実性を認識していた。

 1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発。芦田は、永世中立不可能論を雑誌『文芸春秋』(1950年7月号)に公表し、その後更に、国防軍創設による自主防衛論を展開した。

 講和と安保は、1951年9月8日の同じ日に、サンフランシスコで調印され(時刻と場所は異なる)、翌4月に同時発効した。講和構想は1946年頃から検討されてきたが、日米安保の考えは、1950年頃に現れた。
[講和条約の成立過程(戦後初期からの変転ぶり)]
 米国のバーンズ国務長官は、1946年6月、「日本の武装解除及び非軍事化に関する四か国条約案」を提示。四か国とは、英米中ソである。国務省極東局は1946年10月、対日講和条約の起草に着手。この時期の講和構想は、著しく懲罰的な性格を持っていた。具体的には、
 ①独立後25年間は国際監視機構を置いて日本を監視する事
 ②日本に相応の賠償金を課すこと
 ③再軍備を禁止し、工業能力を制限する事
などである。国際監視機構には英米中ソが参加する事が想定されていた。起草の中心となったH・ボートンに因み、ボートン草案と呼ばれ、1947年3月に完成した。東京のマッカーサーらに伝えられたが、マッカーサーがいち早く反論を寄せた。マッカーサーは25年間の対日監視に反対し、寧ろ日本に経済復興を許すべきとした。1947年3月、マッカーサーは記者会見を行ない、早期講和を提唱した。その中で、非軍事化と民主化の目的は、占領後に既に達成されており、日本の安全保障を国際連合に委ねる事で日本と講和条約を結ぶべきとした。
 マッカーサー構想もボートン草案も、米ソ両国の大国間協調に対して楽観的見通しに基づくものだった。米国務省は、ボートン草案を骨格とした講和条約草案(八・五草案)を1947年8月に完成させた。

 八・五草案に対し、国務省政策企画室のケナン室長は、根底的な批判を加えた。ケナンは、対日講和を、米国の太平洋地域での政策目的との関連で構想し、日本をアジアにおける友好的で信頼できる同盟国とする事が米国の利益であると主張した。1948年3月、ケナンは日本を訪問し、マッカーサーとの会談を行ない、帰国後、対日政策の本格的な再検討に取り組む。この動きは政府上層部を動かし、国家安全保障会議(NSC)の正式決定としてトルーマン大統領の承認を得た。「NSC13/2」と呼ばれる重要な文書である。その骨格は、講和は非懲罰的なものにすべきとし、経済復興に関する部分に重点を置いていた。米国の援助計画により日本の対外貿易を再建し私企業を奨励するとした。なお、この頃は、日米二国間の安全保障に関する取り決めが前提とされていた訳ではなかった。しかし、1950年6月の朝鮮戦争勃発で状況が変わった。

 ヨーロッパにおいては、1947年2月にパリでイタリアをはじめとする各国と連合国との講和条約が調印された。1947年10月に日本の外務省がまとめた資料に、講和以後の日本の安全保障の選択肢の一つとして、米国との間の安全保障に関する取り決めが挙げられていた。

 講和条約促進が決まった頃、国際環境は急変しつつあった。中国では1949年10月、共産党政権が成立。それに先立つ4月にヨーロッパにNATO(北大西洋条約機構)が成立、9月には西ドイツ政府が発足していた。

 1950年1月5日、ソ連の参加が得られなくとも英米で講和を進める事が、トルーマン大統領によって表明された。1950年4月に国務長官顧問に任命されたダレス(John Foster Dulles)が講和条約担当となる。ダレスは、ドイツに対して第一次大戦後に課された懲罰的講和がナチス台頭に至ったとの歴史観を持っていた。ダレスは、1950年6月の訪日を皮切りに翌51年にかけて4回訪日し、講和と安保の両条約を成立させていった。

 日米二国間協定で講和以後も米軍基地を保持する考えは、1950年7月に国務省・国防総省間で実質的な合意に至る。9月に講和と同時に安全保障に関する日米協定を結ぶことで米政府内の同意が得られた。これに基づいてダレスは講和7原則を取りまとめ、関係各国に提示した。7原則は、日本に対する賠償請求権の放棄を認めた上で、再軍備や工業生産能力などに制限を加えないというものだった。ダレスは先ず英国に7原則を提示、最後にソ連のマリク国連代表と会談、マリクは7原則に反対の意見を示した。しかし、ダレスは、極東委員会メンバーからの反対があっても講和を推進する事を表明した。
 オーストラリア・ニュージーランドなどは7原則の中の「日本の再軍備に制限を加えない」事に懸念を表明していた。そこで米国は、ANZUS(オーストラリア・ニュージーランド・アメリカ相互防衛条約)を結ぶ事にし、1951年9月に調印した。
[55年体制への道---社会党統一と保守合同---]

 講和の成立は、政党政治に2つの側面から衝撃を与えた。1つは、公職追放されていた政治家たちの追放解除であり、1951年6月と8月に実施された。かつての大物政治家たちが復帰し、政党再編へと向かう。もう一つは、講和と安保による独立は、不完全なものであるとして吉田外交への批判が高まった事である。

 追放解除と講和の正当性の議論の波に最も早く洗われたのは、社会党だった。1951年10月の講和批准国会の会期中に、社会党は左派社会党と右派社会党に分裂。分裂した両派社会党は、1955年10月の再統一までの3回の国政選挙でそれぞれ画期的な議席増を実現した。

 1950年に結成された国民民主党には、2つの潮流が生じていた。1つは穏健な勤労者を味方に付けるという方向であり、もう1つは芦田や中曽根康弘などが主導した自衛軍創設論である。自由党の吉田外交は、再軍備に消極的であった。国民民主党はその後の党再編で改進党となるが、1952年の改進党による選挙公約の中に、社会保障と軍備拡充が掲げられた。

 一方の自由党では、復帰した鳩山一郎を中心に分派自由党が1953年3月に結成されて、自由党から分かれた。

 1951年11月、『シカゴ・サン』紙の特派員マーク・ゲインが書いた『ニッポン日記』の翻訳が出版され、新憲法制定の事情が明かされた。幣原内閣末期に総司令部民生局から提示された草案を基本的に踏襲したものが日本政府案として公表された経緯が、占領終結を目前にして初めて広く知られる事となった。

 1954年9月、岸信介・石橋湛山らの新党結成準備会に、重光葵が改進党を率いて参加、これが母体となって11月、鳩山を総裁とする新党、日本民主党が結成された。1955年11月、日本民主党と自由党がそれぞれ解党して自由民主党を結成した。衆院で299名、参院で118名が参加し、過半数を上回る議席を得た。翌1956年4月に鳩山が初代総裁に選出された。この保守大合同の背景には、1952年から55年の3回の総選挙で急速に議席を伸ばした左派社会党の存在があった。日本民主党と自由党の合同の直前の1955年10月に、両派社会党の統一が実現していた。
 右派社会党は、議会主義の厳守を掲げていたが、左派社会党は、議会で多数を占めた後は、社会党政権を恒久化する事を考えていた。永久政権論である。両派社会党の統一に際し、議会主義を基本とするも永久政権論の影響も残されていた。こうして日本社会党が発足した。

# by utashima | 2014-02-09 18:12 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

『戦後と高度成長の終焉(日本の歴史24)』(河野康子著)の第1章

第一章 復興期の政党政治---1945年~1949年---

1.戦後体制への始動
 天皇による敗戦の玉音放送が行なわれた1945年8月15日に、鈴木貫太郎内閣は総辞職、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや なるひこ)内閣が成立する。連合国軍最高司令官D・マッカーサーが厚木飛行場に降り立ったのは8月30日。9月2日、東京湾のミズーリ号上で降伏文書への調印式が行なわれた。9月22日に、占領改革の基本指針となった「降伏後における米国の初期の対日方針」が公表された。間接統治を採用する事、日本の非軍事化・民主化などが記されていた。11月3日には、「初期の基本指令」がワシントンから伝えられた。この文書には、日本経済の復興について米国は責任を負わない等が盛り込まれていた。なお、この文書は非公表だった。

 1945年10月、幣原喜重郎内閣が発足。1946年4月まで政権を担当。東久邇宮内閣と幣原内閣は政党を基盤とするものではなかったが、1945年11月から12月にかけて、既に戦後政党の結成が進んでいた。戦後政党にとって最初の課題は、軍部と官僚によって引き起こされた戦争を、どのような論理で否定するかにかかっていた。1946年総選挙で第一党となった自由党総裁の鳩山一郎、翌47年総選挙で成立した社会党首班連立内閣とその後継の民主党首班連立内閣で相次いで首班となった片山哲と芦田均、この三人の政治家は、ある一点で繋がっていた。何れも戦時議会の少数会派の同交会に所属し、多数派であった大日本政治会(翼賛政治会の後身)とは一線を画す立場を共有していた。

2.「民主化」への時代認識
 戦後政治の一翼を担う政治家となった石橋湛山と吉田茂にとって、敗戦は慶賀すべき事態であった。石橋は敗戦3日後の日記に「予はある意味において日本の真の発展のために、米英等と共に日本内部の逆悪と戦っていたのであった。今回の敗戦が何ら予に悲しみをもたらさざる所以である。」と記している。また、1945年8月末に吉田茂が書いた書簡を見ると、「聖断」による終戦の実現を歓迎し、良き戦前への回帰としてのデモクラシー実現を予測していた事が伺える。
 このように吉田をはじめとする戦時下の反東条勢力は、敗戦を「必ずしも悪からず」と把握したが、その彼らからみても、戦後は予想を超える激震を伴って訪れた。

 ポツダム宣言が日本に要求した「民主化」を吉田茂は、戦前に日本に存在した議会制と政党政治にほぼそのまま置き換える事で実現できると予想していたと思われる。吉田にとってデモクラシーとは、軍部台頭によって中断された政党政治を回復し再建する事であった。これは実は大きな誤解であった事が、その後すぐに吉田自身が苦い思いで受け入れる事になる。

 吉田が入閣する1945年9月頃から、事態は大きく変化する。変化の兆しの1つは、1945年9月11日、総司令部が戦犯として東条英機元首相らの逮捕命令に踏み切った事である。労働改革・財閥解体などの方針が次々に打ち出され、総司令部と日本政府の間での基本認識の齟齬が強まってくる。総司令部は政治犯の釈放の方針を示し、これに反対した山崎内相などを罷免した。東久邇宮内閣は退陣した。
 幣原喜重郎が次の首相となる。1945年10月11日マッカーサーと会い、以下の五大改革が口頭で示された。
  ①婦人参政権の付与  ②労働組合結成の奨励  ③学校教育の自由主義化  ④圧制的諸制度の廃止
  ⑤経済機構の民主化

吉田外相の記名のある翌日付の日本政府の以下の文書が残されている。
 「米国の目的は、日本を非軍事化し、民主主義化し合理化するにあり。天皇および日本政府はこの見地よりこれを利用するに止まりてこれを支持するものにあらず。」
 日本政府は、経済民主化(財閥解体)に複雑な反応を見せた。吉田外相は、改革に批判的態度を明らかにする。吉田は会見で、軍部に協力したのはもっぱら新財閥であり、旧財閥は戦時体制とは距離を置いていたとして、財閥解体論に異論を唱えた。吉田の発言は、根拠のないものではなかったが、国際世論から強い反発を招いた。

 近衛は1945年10月11日に内大臣府御用掛に任命され、憲法学者佐々木惣一の協力を得て、憲法問題に取り組み始めた。これが報道されると、10月31日、ニューヨーク・タイムズなどは戦犯の疑いのある近衛による憲法改正着手を非難した。12月には近衛は戦犯容疑で逮捕されることになり、逮捕前日に自殺する事態となった。

 1946年1月に、ワシントンから総司令部に憲法改正についての方針が伝えられた。2月にマッカーサーは三原則として、①天皇の地位は憲法に従う事(天皇を象徴とする)、②戦争を放棄する事、③封建制を廃止する事、を挙げ、憲法改正草案を日本側に示した。これを受け取った吉田外相らは愕然としてなすすべがなかったと伝えられている。2月22日、幣原首相は天皇に拝謁し、天皇から「象徴で良いではないか」との意向があったとされている。3月に入って、日本側は総司令部案を一部修正の上で受諾、7日に「憲法改正草案要綱」を新聞発表した。総司令部案の骨子であった、天皇の地位を象徴とする事と戦争放棄を受け入れ、これを日本政府案として公表したのだった。

 1946年4月の総選挙後に第一次吉田内閣が発足し、憲法改正草案が審議された。8月に衆議院で可決、続いて貴族院の審議を経て、10月7日に可決成立、11月3日に公布された。これが日本国憲法である。施行は1947年5月3日である。政府案がマッカーサー草案に基づくものという事は、公には言ってはならんと総司令部から堅く口止めされていた。

 国内市場の拡大という点からも、1946年10月公布の自作農創設特別措置法によって実施された第二次農地改革は、画期的なものだった。農地改革構想はマッカーサー五大改革にも掲げられてはいなかった。日本の農林省官僚が第一次改革案を作成し、これに対して、より改革的要素を強めた法案が対日理事会(英米中ソの代表からなる対日占領監視機関)から出されるという経緯だった。

 戦後間もない当時、過去の戦争に向き合うという作業は、国内世論がこれを問うという形では進まず、戦争の帰結と責任は、極東国際軍事裁判に集約され、ここで決着が図られた。1946年1月、極東国際軍事裁判所条例が公布され、5月3日に裁判が開始された。裁判は1948年まで開かれ、A級戦犯25名が有罪となった。東条英機・広田弘毅など7名が死刑となり、12月23日に刑が執行された。

3.保守連立の出発
 1946年の総選挙は、衆議院議員選挙法改正による完全普通選挙による最初の選挙であった。第一党は自由党、続いて、進歩党、社会党であったが、第二、三党の議席差は1でしかなかった。自由党総裁の鳩山一郎が組閣する筈のところ、組閣目前に鳩山一郎は公職追放となった。幣原の推輓を受けた吉田茂が首相となって第一次吉田内閣を組閣する。自由党と進歩党の保守連立であった。

4.中道連立の経験
 社会党・民主党・国民協同党の三党を与党とした社会党首班三党連立内閣が1947年6月に成立した。片山哲内閣である。民主党は1947年3月31日に結成され、芦田均が総裁となった。国民協同党は1947年3月8日に結成され、書記長に三木武夫が就任。総司令部はこの三党連立を支援する方針を明確にしていた。しかし、1948年2月には補正予算編成を巡り、社会党内に亀裂が生じた。社会党左派の造反であった。片山は2月10日に政権を投げ出す。3月10日に芦田均内閣が成立する。

5.自由党の軌跡---結党から1949年総選挙まで
 1948年10月に芦田内閣が総辞職したため、自由党が政権に復帰。同年3月に自由党は民主自由党と改名していた。その頃から自由党内には、貿易立国論を政策基盤とする方針が固まりつつあった。自由党は、既に発足していたIMF(国際通貨基金)に関心を持っていた。1944年に米国ニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで国際会議が開かれ、第二次大戦の起因するところに鑑みて国際経済秩序の創設と強化が議論され、ブレトン・ウッズ協定が結ばれた。この協定は、ドルと金の交換を自由にし国際通貨制度を金本位制からドル本位制に転換し、国際通貨基金制度を発足させることを決めた。これにより、1945年にIMFが創設された。
 民主自由党は、1949年1月の総選挙で過半数の議席を獲得し、社会党の議席数は解散前の1/3に減った。

# by utashima | 2014-01-30 20:52 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

『帝国の昭和(日本の歴史23)』(有馬 学著)の第6章

第6章 総力戦の諸相

 第二次近衛内閣(1940年7月~1941年7月)が当初に行なった外交上重要な決定は、1940年7月27日の大本営政府連絡会議で決定された「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」と、9月27日に調印された日独伊三国軍事同盟である。この前者の中で、「南進」が登場する。南進とは、ドイツの勝利で宗主国を失った形の旧フランス領インドシナ(仏印、ベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域に相当)や旧オランダ領インドシナ(蘭印、1949年にインドネシア共和国として独立)に対しての進出である。南進は日米関係に緊張をもたらすため、海軍は慎重であった。陸軍も南進に関して意見がまとまっていた訳ではなかった。1940年6月に、蒋介石政権支援ルートの停止状況監視のために陸軍の機関がハノイに派遣されていた。部隊の進駐は9月23日に行なわれたが、その過程で事前の了解を破って出先軍部が武力行使を行なった。米国は9月26日に屑鉄の全面禁輸という報復措置を取り、日米関係は険悪化した。
 日ソ関係は、松岡が1941年3月からモスクワに出向いて交渉し、4月13日に日ソ中立条約を成立させた。

 1941年の日本外交の主題は日米交渉となった。近衛と松岡の間で対米交渉の考えが異なり、近衛は総辞職した後、外相を松岡から豊田貞次郎に替えて第三次近衛内閣を作った。近衛は日米交渉を何とか成立させようと考えていた。

 1941年7月28日、日本は南部仏印進駐を実行、米国は7月25日に在米日本資産凍結、8月1日に石油を含む対日全面禁輸という報復措置をとった。日本側はこのような強硬措置を予想していなかった。日本は9月6日の御前会議で、「帝国国策遂行要領」を決定。これは外交交渉の期限を10月上旬とし、10月下旬に戦争準備を完成させるというものだった。近衛は10月16日に総辞職する。

 後継首相は東条英機に大命が降下した。東条は9月6日の御前会議決定の再検討に入った。戦争決意の下に作戦準備と外交を併行、武力発動を12月初頭とし対米交渉が12月1日午前0時までに成立したら武力発動を中止するとした。米国からの回答は11月26日に日本側に手交された。所謂ハル・ノートであり、中国・仏印からの全面撤兵、三国同盟の否認などから成っていた。米側は前日に、ルーズベルト、ハル、陸海軍首脳の間で、日本に最初の一撃を撃たせることを確認していた。

 対米英蘭開戦は、1941年12月8日、南方軍のコタバル(マレー半島)上陸と、真珠湾奇襲攻撃によって始まった。真珠湾攻撃では、第一航空艦隊の艦載機は停泊中の戦艦6隻を全て撃沈した。10日には海軍の基地航空機がマレー沖を航行中の英国極東艦隊の主力、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの2隻を撃沈した。南方軍は1942年1月2日にマニラを占領、2月15日にシンガポールを陥落させ、3月8日にビルマの首都ラングーンを占領、3月9日にはバンドンを占領した。こうして5月上旬までにはほぼ当初の目的通り南方諸地域の占領が完了した。日本は占領諸地域をどうしようと計画していたのだろうか。

 1941年12月12日の閣議で、この戦争を「大東亜戦争」と称する事を決め、戦争目的を「大東亜共栄圏確立」とした。参謀本部は1941年2月から占領地行政の研究を行なっていた。ビルマとフィリピンの独立承認を考えていたが、開戦前には具体的な方針は確定していなかった。開戦後の1942年1月の79議会において東条首相は、ビルマとフィリピンに独立を与える方針を示した。マレー、シンガポールなどは、日本の領土化または保護領化が検討された。

 1943年11月5、6日、東京で開催された大東亜会議において、大東亜共同宣言が調印・発表された。調印したのは、中華民国(南京政府:1940年に重慶の蒋介石政権に対抗して汪兆銘が南京に立てた政権)行政院長の汪兆銘、タイのワン・ワイタヤコーン親王、満州国の張景恵国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、である。日本はこの年にビルマとフィリピンの独立を承認した。10月30日には汪兆銘と日華同盟条約を締結し付属議定書で戦争状態終了後の撤兵を約した。なお、9月30日の御前会議で「今後採るべき戦争指導大綱」を決定し、絶対国防圏を「千島、小笠原、内南洋及び西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む地域」に後退させた。
 大東亜共同宣言では、大東亜戦争の原因を米英の飽くなき侵略搾取と規定、大東亜を米英の桎梏(しっこく)より開放する事を戦争目的とした。大東亜会議と共同宣言は、4月に外相に就任した重光葵の新政策の一環であった。

 独裁政権に見えた東条内閣期にも複雑で激しい政治力学が存在した事は、伊藤隆氏によって初めて明らかにされた。東条内閣期における反東条勢力の中核は、近衛文麿であった。当初近衛は「革新」派のシンボル的存在だったが、大政翼賛会を巡る論戦の中で怪しくなり、対米英開戦後は明確に反「革新」派としての立場をとった。この近衛の転向について、巧く説明するのは困難である。真崎甚三郎を中心とする陸軍皇道派が反東条で動いた。反東条派は戦争の早期終結を政治目標としていた。近衛が最も早く、徹底した和平派になった。反東条派の多くが依然として名誉ある和平を考えていた1944年半ばの段階で、近衛は即時和平論者だった。現実には東条内閣が崩壊しても、反東条派が構想した政権は実現しなかった。その第一の理由は、天皇に皇道派に対する信頼がなかった事であろう。彼らの真意が天皇に伝わっていなかったと解釈するしかない。

 近衛は、1945年2月14日に天皇に拝謁した時、上奏文を伝えた。「近衛上奏文」と呼ばれている。その冒頭で、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」と、敗戦の見通しを単刀直入に表現した。上奏文は、1日も速に戦争終結の方途を講ずべしと主張する。しかし、軍部内の一味(革新派)を一掃せずに和平に着手するは、国内の混乱を惹起する。よって、その一味の一掃が肝要。それが可能なのは皇道派であり、皇道派を起用して政局を運営できるのは近衛である、と言外に主張する。

 時計の針を少し戻す。緒戦の勝利が一段落した後の戦争指導方針は明確ではなかった。1942年3月7日の大本営政府連絡会議で決定された「大綱」では、長期不敗の政戦態勢を整えるという陸軍の主張と、機を見て積極的方策を講ずという海軍の主張を足したものだった。「積極的方策」として山本五十六大将が計画したのが、ミッドウェー海戦である。ミッドウェー島を攻撃して米艦隊を引き出し、打撃を与えようというもの。6月5日に展開された空母戦は、暗号を解読して待ち受けていた米艦隊の勝利に終わり、日本海軍は主力空母4隻を全て失った。太平洋における戦局の最大の転換点となった。

 米国の本格的反攻は1942年8月に開始された。ソロモン群島の要衝を攻撃し、日本海軍最大の航空基地であるラバウルの攻略を目指すもの。ラバウルが失陥すれば、太平洋の日本の艦隊根拠地であるトラック島が空襲にさらされる。米軍の攻撃は日本が飛行場を建設していたガダルカナル島に向けられた。1943年2月初め、大本営は「転進」と称してガダルカナルから撤退した。1943年4月18日、連合艦隊司令長官の山本五十六の搭乗機がブーゲンビル島上空で撃墜された。事前に暗号を解読されていたためという。

 1943年は世界的にも戦局の転換点であった。2月にスターリングラード攻防戦でドイツ軍が降伏、7月には連合軍がシチリア島に上陸しムッソリーニは政権から追われた。11月22日からルーズベルト、チャーチル、蒋介石が参加したカイロ会談が行なわれ、台湾・満州の返還、朝鮮独立などを含む対日戦後処理方針が決められた。11月28日からルーズベルト、チャーチル、スターリンの間で行なわれたテヘラン会談では、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦が約束された。

 米軍の次の攻勢は、マリアナ諸島に向けられた。サイパン、テニアン、グアムなどが米軍の手に落ちると日本本土の殆どがB29による爆撃圏内に入る。1944年6月15日、米軍はサイパンに上陸を開始。19日にマリアナ沖海戦が行なわれたが、日本は惨憺たる敗北を喫した。

 サイパンの失陥により、東条も退陣を余儀なくされた。次期内閣は小磯国昭が奏請された。小磯内閣のもとで「天王山」と呼号されたのがレイテ決戦だった。10月20日、米軍はフィリピンのレイテ島に上陸を開始。連合艦隊は総力を結集して最後の決戦を挑んだ。囮(おとり)となった部隊が米機動部隊を誘出する事に成功したが、後年謎とされたように、栗田健男中将の指揮する主力艦隊は何故かレイテ湾に突入せずに反転し、作戦は失敗に終わった。このレイテ沖海戦で連合艦隊は主力艦船を失い、以後組織的な作戦が不可能となった。この時、神風特別攻撃隊により特攻攻撃が初めて行なわれた。

 1944年9月5日の最高戦争指導会議にて、杉山元陸相が独ソ和平工作、対重慶和平工作、対英米和平工作について発言しているが、小磯内閣の外交は一元化されていなかった。1945年2月19日には硫黄島に米軍が上陸。3月以降、サイパンを基地とするB29の本土爆撃は激しさを増した。3月9日から翌日未明にかけての約300機による東京大空襲では約23万戸が焼失した。2月に、異例の措置として天皇が個別に重臣を招いて意見聴取が行なわれた。近衛の奏上は、その一つであった。4月1日、米軍は沖縄本島に上陸を開始。陸海軍機による特攻攻撃が繰り返され、連合艦隊も戦艦大和を中心とする特攻艦隊を出撃させ、大和は4月7日に撃沈される。4月5日にソ連のモロトフ外相が日ソ中立条約(1946年4月が期限)を延長しない事を通告、小磯は内閣総辞職を行なった。

 後継首相奏請のための重臣会議は、海軍の鈴木貫太郎を選んだ。日本は対ソ特使として近衛を派遣する事をモロトフ外相に伝えたが、モロトフはスターリンに随行してポツダムに向かった。7月26日にポツダム宣言が発表された。この10日前に米国は原爆実験に成功していた。ソ連の回答を待っていた鈴木内閣は、ポツダム宣言を黙殺するとの声明を発表したが、8月6日に広島に、8月9日に長崎に原子爆弾が投下され、8月8日にはソ連は対日宣戦を布告した。

 8月9日に最高戦争指導会議が開かれ、ポツダム宣言受諾では大筋合意を見たが、天皇制の存続、自発的な武装解除、連合軍の本土進駐の回避、戦犯の自主的処罰の4条件を付する問題で紛糾。翌未明になって、鈴木は天皇の決断を仰ぎ、天皇は外務大臣の案(皇室の安泰のみを条件として受諾する)に同意する旨の発言を行なって決着した。

# by utashima | 2014-01-13 18:47 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

カテゴリ毎の目次が満杯に

 2014年1月にブログ記事を1つ作成し、「読書」カテゴリ目次に登録しようとした。「読書」カテゴリ目次を保存しようとすると、「文字数が多すぎる。xx文字削除しなさい。」といったメッセージが出た。「読書」カテゴリ目次は、普通の記事と同じで、ただ「読書」に関する記事へのリンクを記述したもの。そのリンク数は167になっていた。

 1つの記事の文字数制約が幾らなのか、把握していないが、取り敢えず「読書2」という別のカテゴリを作り、新しく作った記事をそちらにリンクした。

[追記(2014年1月4日)]
 エキサイト・ブログの1記事当たりの文字数制限は、全角で約10000文字でした。なお、目次は大量のリンク情報を含んでおり、画面表示の文字数以上を使用しています。
# by utashima | 2014-01-04 09:31 | ブログ作成の経過 | Trackback | Comments(0)

『帝国の昭和(日本の歴史23)』(有馬 学著)の第5章

第五章 革新の光明?

 1936年の二・二六事件後の首相選定において、西園寺はかねてから期待していた近衛文麿を推薦するが、近衛は辞退。陸軍も近衛に期待していた。近衛の辞退理由の一つは、軍の派閥統制に自信がなかった事という。大命は広田弘毅に下った。広田は吉田茂を組閣参謀として組閣にあたったが、陸軍による組閣干渉が行なわれた。直接的な政治への口出しとしては最初である。陸軍は吉田茂(自由主義者)、下村宏らの入閣を阻止した。馬場鍈一は軍部に売り込んで大蔵大臣になったという評がもっぱらであった。馬場は、増税や公債発行によって大幅な軍拡を呑み込んだ大規模予算(前年比26%増)とした。国際収支が一気に悪化し、政府は輸入為替管理によって直接統制に踏み切った。「準戦時」統制経済の始まりである。1936年11月に日独防共協定が調印された。コミンテルン(1919年から1943年まで存在した、共産主義政党による国際組織)の脅威に共同して対抗する事をうたった。日独双方とも将来は英国も参加させることを考えていた。

 農本主義者で農業指導者だった加藤完治は、1927年に茨城県内原に日本国民高等学校を開校し、校長として農業移民を推進していた。満州事変により年来の主張を実現する好機を得た加藤は、各方面に働きかけ、満蒙移民は国策として取り上げられるようになる。訓練所が置かれた内原は、満蒙移民のメッカとして視察者が相次いだ。1932年から拓務省による試験移民が開始された。
拓務省とは、1929年(昭和4年)から1942年(昭和17年)にかけて日本に存在した省で、外地と言われた日本の植民地の統治事務・監督のほか、南満州鉄道・東洋拓殖の業務監督、海外移民事務を担当した。

大規模な移民政策が開始されるのは二・二六事件後の広田内閣になってからである。実際に敗戦までに27万人の移民が送出された。

 林銑十郎内閣が倒れた後、西園寺は近衛文麿を奏請、近衛は今度は大命を受けた。近衛は国民的人気が高かったが、とりわけ陸軍の期待が大きかった。近衛は昭和10年代に三次にわたって内閣を組織し、その期間に、盧溝橋事件、日独伊三国同盟、南部仏印進駐(日米開戦への岐路となる)の日本の命運を決めた事件が発生している。

 西園寺は1919年のパリ講和会議に全権として出席する時、近衛を随員に加えている。近衛はパリに入る前に雑誌『日本及日本人』に、「英米本位の平和主義を排す」という論文を発表し、西園寺に叱責されている。近衛の考えは、講和会議で高唱される平和主義は英米の帝国主義に都合のいいものであり、領土も資源も乏しい後発国の日本は彼らに対して資源の再配分を要求せざるを得ないというもの。彼は人種平等に基づく世界改造を主張した。近衛は対外方針として「国際正義に基づく真の平和」、「単純なる現状維持に非ざる真の平和」を、国内政策として「社会正義に基づく施設」を唱えた。
 期待を背景に出発した近衛にとって、予想外だったのは組閣1か月後の1937年7月7日に盧溝橋事件が勃発した事である。その半年前の1936年12月に西安事件が起こっていた。共産党軍攻撃を行なっていた張学良が西安で蒋介石を逮捕監禁した事件である。周恩来ら共産党首脳との連絡の下で張、蒋の話し合いが行なわれ、蒋介石は南京に戻ったが、1937年2月に国民党は国共合作に応ずる決定をした。盧溝橋事件の前には中国国内情勢の急変があった。7月7日の夜、夜間演習中の支那駐屯軍が十数発の小銃射撃を受け兵1名が行方不明になった。日中両軍の衝突となったが一旦停戦。しかし7月末には本格的な戦闘となり、8月13日には上海に戦火が拡大した。8月17日の閣議で「不拡大方針を放棄」する決定を行なった。こうして日本は、長期にわたる中国との戦争に入り込んだ。

 1937年12月13日に中国国民政府の首都の南京が陥落。南京の占領に際して虐殺が発生したのは、今日知られている通りである。日本政府は1938年1月16日に、後に「対手(あいて)とせず」声明と呼ばれる声明を公表。「帝国は爾後国民政府を対手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす」という趣旨のもの。多くの人が事変解決を困難にしたと評価する「対手とせず」声明は、陸軍省と近衛の主張で出された。
 近衛は1938年5月に内閣改造を行なった。外相となった宇垣一成は英国の仲介による和平交渉を探る。しかし陸軍革新派の反対を受ける。陸軍は、北京や南京に傀儡政権を樹立させ、武漢・広東を占領した。宇垣は9月下旬に辞任した。

 宇垣工作とは別に、国民政府ナンバーツーの汪兆銘との間に極秘工作が進行していた。1938年11月までにまとまった両者の了解は、満州国の承認、将来的な日本軍の撤兵などを条件に、汪兆銘が重慶を脱出し日本と提携する新政権を樹立するというもの。汪兆銘は12月20日に重慶を脱出して飛行機でハノイに到着した。汪兆銘は、こののち漢奸(対日協力者)として指弾される。11月下旬の汪兆銘は、「これまでの決定を全て覆し、検討を要すると言い出す」など、動揺を見せていた。

 この辺りから支那事変は分かり難い戦争になって行く。

 近衛内閣は「対手とせず」声明を、その年(1938年)の11月の政府声明で修正している。日本側の真意は領土や戦費賠償を求めるものではなく、「帝国の希求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。・・・」と説明する。12月22日には近衛首相による声明もあった。「支那の主権を尊重するは固より、進んで支那の独立完成のために必要とする治外法権を撤廃し且つ租界の返還に対して積極的なる考慮を払うに吝かならざるものである。」とうたった。日中戦争が帝国主義的な国家間の戦争とは異なる性格のものである事を主張。この考えをここでは「聖戦」イデオロギーと捉えよう。相手を殺すことが、「独立完成」を支援することになる? ここに「聖戦」イデオロギーの据わりの悪さがある。

 社会大衆党は「聖戦」イデオロギーを最も積極的に鼓吹した。日本内部の資本主義を改革して全体主義の制度を建設するための国家「革新」的意義を有する戦争であるとする。
 一方、1940年の議会において、政府及び軍部の戦争指導を批判する質問演説を行なった齋藤隆夫は、資本主義の弊害(貧富の懸隔など)は認めるが、資本主義に対する抑制が限度を超えて自由競争を減殺し、社会政策が度を越して国民の依頼心を増進せしめるのは、国家社会の発達を促すゆえんではないとの立場であった。

 日中戦争が長期化する事が明らかとなり、軍事費の増大と経済の統制化が行なわれた。1938年4月に国家総動員法が公布された。この法律は経済活動の諸分野のみならず、言論などに関する統制の権限を、統制内容を条文上に明示せずに政府に委ねるもので、議会の審議で激しい論争をよんだ。戦時統制を担う官庁として1937年10月に企画院が創設された。そして1938年後半から価格統制、配給統制が強化された。窮屈な戦時生活は、この頃から始まる。

 近衛は1939年1月に内閣を投げ出した。その要因の一つに、ドイツと陸軍から出た日独防共協定の強化がある。対ソ戦を想定した軍事同盟化だったが、ドイツは攻守同盟の対象にソ連以外の第三国からの攻撃も含めようとしていた。日本はこれを忌避した。次の平沼騏一郎内閣の時も防共協定問題は検討されていたが、欧州ではドイツは1939年8月に独ソ不可侵条約を締結した。平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」との声明を発表して総辞職した。独ソ不可侵条約では、ヒトラーとスターリンによるポーランド分割の密約が記されていた。ヒトラーはこの条約締結の1週間後にポーランドに侵攻を開始した。

 平沼内閣の後、1939年8月に陸軍の阿部が、さらに1940年1月に海軍の米内が内閣を組織したが、いずれも短命に終わり、1940年7月に再び近衛が組閣する。松岡洋右を外相に、東条英機を陸相にした。

 日本国内の「革新」勢力は、1940年4月のドイツ軍の北欧侵攻と5月のベネルクス三国侵攻に始まる電撃戦の成功により、勢い付けられた。ドイツ軍のパリ入城は1940年6月14日。当時の東京朝日新聞は6月15日の社説に、「仮に米国が対独参戦したとしても、ドイツが打倒されるとは考えられない」と書いている。あっという間に英仏軍をダンケルク(ドーバー海峡に面したフランス北西部の町)から追い落としたドイツの勢いに、そんな雰囲気が支配的だった。近衛再登場・革新断行の要求が、このような雰囲気を背景に高まった。

 近衛と彼を担いだ勢力は、新たな政治体制の構築を目指した。近衛は東大法学部教授の矢部貞治に新しい政治体制のプラニングを依頼していた。当時、陸軍や社会大衆党は「一国一党」的な新党理念を持っていたが、矢部は、その理念は対抗勢力から非難を浴びる可能性が大きいと考えた。天皇と国民の間にあって実質的な統治者として権力を行使する機構もしくは集団は「幕府」であり、一国一党の首領の近衛が同時に内閣の首班になる事は、「幕府」政治であり、憲法違反との非難を招く可能性があるとした。

 新政治体制問題は大政翼賛会に帰結したが、この時期、2つの政治的潮流が激突した。革新右翼と観念右翼である。当時の国内政治は、天皇に帰一する万民翼賛を国家の正統性の根拠とする以外に存在し得ず、その意味では全て「右翼」である。革新右翼は、日中戦争解決のために三国同盟に依拠し、公益優先、強力な政治的リーダーシップの一元化を求める勢力。観念右翼はそれに反対する右翼である。この衝突は1941年初頭の76議会で、憲法論争の形をとって全面化した。

 組閣1か月後の1940年8月、新体制準備会が設置された。1か月の審議後に、大政翼賛運動綱領草案を決定し、以後の扱いを総裁(近衛が想定された)一任として任務を終了した。近衛内閣は9月27日(日独伊三国同盟の調印式の日)の閣議で、大政翼賛会の設置などを決定した。なお、76議会などで近衛は現状の大政翼賛会に憲法上の問題がある事を事実上認めている。


# by utashima | 2014-01-03 14:25 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

2014年の正月 & 家内の退院

 新年明けまして、おめでとうございます。本年も、宜しくお願いします。

 暮れの12月21日(土)に家内が肺炎で緊急入院しましたが、本日(2014年1月1日)退院できました。

[経過]
 12月初旬から家内と娘は共に風邪気味でした。娘は回復しましたが、家内が中々回復せず気にはしていました。そんな状態の12月16日(月)の夕方、家内から職場の私に、「もう動けないから、病院に連れて行って」という電話がありました。すぐに帰宅しましたが、家内の行き付けの内科は診察時間を終えており、私の行き付けの内科に行きました。高熱(40度)と咳が主な症状でした。内科でインフルエンザ検査をして貰い、陰性を確認。通常の風邪の投薬をして貰って帰宅しました。

 12月19日(木)まで薬を飲みながら養生しましたが、食欲が無く、改善しません。16日と同じ内科に再度掛かり、咳が酷くなっていたので、その関係の薬などを貰いました。本人は熱は無いと思うと言っていたので検温もせず。しかし、その時も高熱があった可能性があります。

 翌日になっても改善しないので、21日(土)の午前中に家内の行き付けの内科に掛かりました。その時も本人は熱は無さそうと言いますが、私は体温計を借りて測ってみました。39度の熱でした。すぐに肺のレントゲン検査をしてくれ、画像を見た先生は、「ここでは対処できない。総合病院へ予約を入れておくから、すぐに行きなさい。」と言われました。肺の広い範囲に白っぽい影が写っていました。

 車で15分程度の所にある総合病院に行き、血液検査を受けると、炎症の程度を測るCRPという項目が35もありました。重い肺炎でもCRP値は10程度。先生に、「もう1日遅ければ危なかったよ」と言われました。

 その日(12月21日)に入院し、抗生剤を入れた点滴を処方して貰いました。CRP値は数日後に16に下がり、更に2日後に4まで下がりました。そして、本日退院できました。

 入院した翌日には群馬県で病院勤務している長男が様子を見に来てくれ、心強かった。24日には弘前から次男が帰省し、長女と共に家事などを手伝ってくれ、助かりました。家内が長期に家にいないと如何に大変かが分かりました。冷蔵庫の中や台所の引き出し内が整理されていなかったので、主に次男が大胆に整理してくれました。おせち料理は、家内が生協に注文しており、12月30日に届けられました。-18度以下の冷凍室に保管し、31日に解凍する必要がありましたが、次男が既に冷蔵庫内を片付けてくれていたので納める事が出来、無事におせち料理を楽しむ事が出来ました。

[今思う事]
 肺炎がこんなに身近な病気だとは思ってもいませんでした。私も風邪をこじらせて、気管支の炎症まで進む事はありますが、肺炎になった事は有りません。でも、高熱と咳が続いている時は、先ずインフルエンザを疑いますが、それが陰性の時は肺炎も視野に入れて、レントゲンや血液検査を受けるべきでしょう。
 入院して数日間は、もしもの事が脳裏に浮かび、心が沈みました。今回入院した総合病院へは、同居している家内の両親も2年前に重篤な病気で入院し、二人とも死の淵から戻して戴きました。感謝します。

# by utashima | 2014-01-01 12:51 | イベント | Trackback | Comments(0)

『帝国の昭和(日本の歴史23)』(有馬 学著)の第4章

第四章 「非常時」の表と裏

 1930年3月26日、関東大震災からの復興が成り、天皇臨席のもとで、帝都復興完成式典が挙行された。この頃から「大東京」という呼び方が定着する。行政も1932年10月に周辺5郡を市域に編入してから大東京という呼称を使うようになる。この合併で、東京市の面積は6倍になった。この時、品川、世田谷、渋谷、杉並、豊島、葛飾、江戸川などが東京市に編入された。これらの地域の人口は、都心からの移住者や地方からの転入者で急増。これらの人々を新宿や渋谷などのターミナルに運ぶ私鉄は、1930年代には今日のものが全て揃っていた。

 1932年3月1日、満州国建国宣言が発表された。当時の犬養内閣は、現状を追認するが直ちに満州国の正式承認はしないという方針だった。五・一五事件後に成立した斎藤内閣は、満州国承認に向けて舵を切った。日本政府は、リットン調査団の報告書提出以前に満州国を承認し、1932年9月15日、首都・新京(長春)で日満議定書が調印された。議定書の本文は僅か二か条から成るだけであるが、それ以前に関東軍司令官と満州国執政・国務総理との間で交わされた往復文書が付属文書として効力が確認されている。溥儀から関東軍司令官に宛てた書簡においては、満州国は国防及び治安維持を日本に委託する事、国防上必要な限り、鉄道・港湾などの管理新設を日本に委託する事、満州国参議その他官吏に関東軍司令官の推薦により日本人を登用する事などが書かれていた。勿論、日本側が作成して溥儀に署名させたもの。

 リットン調査団は、1932年2月末から6月初めにかけて、満州、日本、中国で調査を行ない、報告書を作成した。報告書の要点は、満州における中国政府の主権を確認しつつ、実質的に日本の地位を承認しようとするものだった。この報告書に基づき、12月から国際連盟で審議された。焦点は満州国の否認問題だった。審議中の1933年1月に関東軍は山海関を占領し熱河省に侵攻するなどの行動をして、連盟側を強く刺激した。2月24日の国際連盟総会でリットン案よりさらに厳しい勧告案が賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)で採択された。日本は翌3月27日に国際連盟に正式に脱退通告を行なった。帰国した松岡洋右は、国民に凱旋将軍のように迎えられた。

 斎藤内閣と陸軍とは、満州国承認と国際連盟脱退については、距離はそれほどなかった。問題は内政であった。陸軍陸相は高橋是清蔵相の財政論に全く対抗できず、齋藤首相の老獪さにしてやられた。荒木の陸軍内における威信は低下した。この事は、後に皇道派と統制派と称される陸軍内の派閥対立を顕在化させる一因となる。斎藤内閣は2年を超える長命内閣となったが、帝人事件と呼ばれる疑獄事件により、1934年7月に総辞職した。後継総理大臣として海軍の岡田啓介に大命が下った。

 斎藤・岡田内閣を現状維持的として批判する最大のグループが、陸軍内の「革新」を主張する勢力だった。岡田内閣期には、「革新」を主張する勢力内の対立(統制派と皇道派)が深刻な段階に入る。1934年3月に後に統制派の総帥と目される永田鉄山少将が陸軍省軍務局長に就任。陸軍首脳間で人事問題その他を巡って、荒木・真崎(皇道派)と林・永田(統制派)の対立が激しくなった。

 陸軍における深刻な政治抗争が最初に表面化したのは、1934年の11月事件である。陸軍士官学校中隊長だった統制派の辻政信が、学生をスパイに使って調査し、「クーデター計画」が発覚したとして陸大学生の村中孝次、一等主計の磯部浅一らを処分したもの。クーデター計画は立証されず、逆に村中、磯部らが辻らを告訴する事態に。

 1935年になって、天皇機関説事件が発生。天皇機関説は、美濃部達吉の憲法解釈であり、国家法人説と呼ぶのが正当であり、天皇機関説は俗称である。天皇を「機関」とするとは何事かという、馬鹿げた感情が作用した。在郷軍人会や民間右翼団体がこの問題を増幅し、陸軍皇道派が利用した。岡田首相は当初の立場を変更し、議会で機関説反対を言明。内務省は、美濃部の主著を発売禁止とした。しかし、皇道派の真崎は7月16日に教育総監を更迭される。1935年8月、永田軍務局長が陸軍省の自室で白昼斬殺される事件が起きた。犯人は皇道派の相沢三郎中佐。真崎更迭に対する皇道派の反撃と考えられる。真崎更迭から相沢事件と続く混乱は、二・二六事件に繋がっていく。

 話は少しさかのぼるが、国際連盟でリットン報告書をめぐる議論が行なわれている中、関東軍は天皇の憂慮にも拘らず熱河省侵攻を開始した。1933年5月下旬には日本軍は北京に迫る勢いだった。国民政府は、停戦を求めざるを得なかった。5月31日に停戦協定が調印された。協定内容は日本側の案文を押しつけたもの。この協定後、満州事変への世界の関心は急速に薄れた。1933年9月に広田弘毅が外相に就任し、重光次官とともに広田・重光外交を進めた。重光らの方針は、満州国は独立国として発展せしめ、中国本土については干渉せず中国政府に任せると言うものだった。この方向で満州問題は解決するという見通しだった。中国側にも、満州国の承認に対して、対日妥協の姿勢が見えて来た。日本と中国は、それぞれが三原則を相手に提示し交渉したが、その間に関東軍は華北分離工作を進行させており、三原則交渉はまとまらなかった。中国側の三原則は、①日中相互の独立尊重、②真正な友誼の維持、③両国間の事件は平和的外交手段に拠る事、であり、これを日本が承認して以前の休戦協定を破棄すれば、中国側は満州国の独立を承認する態度を明らかにしていた。この時の交渉が、満州事変後の関係改善の最後のチャンスであったと言えるかも知れない。

 1930年代半ばには陸軍内部の政治抗争は抜き差しならぬ敵対的なものとなっていた。皇道派の青年将校グループには直接行動への意志が高まっていた。1936年2月26日未明、青年将校に率いられた、重機関銃・軽機関銃・小銃で武装した部隊が、降り積もった雪の中を出動した。目標は、鈴木貫太郎侍従長官邸、首相官邸、警視庁、陸相官邸、内務大臣私邸、教育総監私邸、大蔵大臣高橋是清私邸、湯河原で静養中の前内大臣牧野伸顕である。内大臣、高橋大蔵大臣、教育総監が死亡、鈴木侍従長は重傷。首相官邸では、容貌が似ていた岡田首相の妹婿松尾伝蔵大佐が誤認されて殺害された。首相は女中部屋に隠れていて、翌日まで死亡と信じられていた。岡田首相は弔問客に紛れて脱出に成功した。1480余名の決起部隊は、一帯を4日間にわたって制圧した。荒木・真崎らによって暫定内閣成立の上部工作が行なわれた。しかし、速やかに反乱を鎮圧せよとの昭和天皇の意志が事態を決定づけた。処罰は厳しく、17名が死刑となった。

[統制派と皇道派](ウィキペディアより)
 統制派は、陸軍内にかつて存在した派閥。当初は暴力革命的手段による国家革新を企図していたが、あくまでも国家改造のため直接行動も辞さなかった皇道派青年将校と異なり、その態度を一変し、陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現するという合法的な形で、列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指した。

 天皇親政の強化や財閥規制など政治への深い不満・関与を旗印に結成され陸大出身者がほとんどいなかった皇道派に対し、陸大出身者が主体で軍内の規律統制の尊重という意味から統制派と呼ばれる。統制派は、皇道派のような明確なリーダーや指導者は居らず、初期の中心人物と目される永田鉄山も軍内での派閥行動には否定的な考えをもっており、「非皇道派=統制派」が実態だとする考え方も存在する。ただ永田亡き後、統制派の中心人物とされた東條英機などの行動や主張が、そのまま統制派の主張とされることが多い。

 皇道派は、二・二六事件に失敗し挫折する。統制派は、革新官僚とも繋がりを持つ軍内の近代派であり、近代的な軍備や産業機構の整備に基づく、総力戦に対応した高度国防国家を構想した。中心人物は永田鉄山、東條英機。

 皇道派は反ソ・反共を掲げ、右派色が強かったのに対して、統制派は南進論と中国への一撃を主張し、英米を敵とし、ソ連との不可侵条約の締結を推進した。

 統制派中心人物の永田鉄山が、皇道派の相沢三郎陸軍中佐に暗殺された(相沢事件)後、皇道派との対立を激化させる。この後、皇道派による二・二六事件が鎮圧されると、皇道派将校は予備役に追いやられた。陸軍内での対立は、統制派の勝利という形で一応の終息をみる。

 その後、統制派は、陸軍内での勢力を急速に拡大し、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍に非協力的な内閣を倒閣するなど政治色を増し、最終的に、永田鉄山の死後に統制派の首領となった東条英機の下で、共産国家に近く全体主義色の強い東條内閣を成立させるに至る。

# by utashima | 2013-12-19 21:23 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『帝国の昭和(日本の歴史23)』(有馬 学著)の第3章

第三章 「挙国一致」内閣の時代

 陸軍内部に、満蒙問題に対する中国政策への不満が明確な形を取りつつあった。陸軍内の長州閥人事を打破し満蒙政策を一新する事を目指した政治的な軍人たちを、ここでは陸軍中堅層と呼ぶことにする。この軍人たちの結社の一つが木曜会である。岡村寧次、永田鉄山、東条英機石原莞爾、鈴木貞一、根本博らが中心的メンバーであった。1927年には既に会合を持っていた。彼らは、帝国自存のため、満蒙領有を志向していた。1927年頃から二葉会と呼ばれる会合も持たれ、木曜会と二葉会が合流して、1929年に一夕会(いっせきかい)が結成された。この会のメンバーが間もなく陸軍の要職を占めるようになる。彼らが課長クラス以上になる頃に、満州事変が勃発する。

 満州事変の発端となった1931年9月18日の柳条湖事件(満鉄線爆破)は、石原莞爾や板垣征四郎らの計画的陰謀であった。9月18日夜10時過ぎ、奉天近郊の柳条湖付近で、関東軍は満鉄線を爆破し、これを中国軍の仕業として、中国軍の拠点北大営を攻撃。19日には長春地方、21日には吉林地方を占領した。その際、朝鮮軍司令官(林銑十郎)の独断越境による後方支援があった。

 若槻内閣は不拡大方針を決定するが、陸軍中枢の強硬姿勢に押し切られ、閣議は柳条湖事件以後の関東軍の行動を承認する。また朝鮮軍の独断越境も認め、そのための経費支出を承認した。陸軍中堅層の考えは、満蒙の領有であったが、参謀本部中央の同意を得られず、9月22日に親日政権樹立という方向を打ち出す。これが後の満州国建国に繋がる。

 関東軍は、幣原による国民政府との外交交渉や、英米などの幣原外交支持の動きを牽制しようと、10月8日に錦州爆撃を行なう。錦州には張学良が設けた仮政府があった。国際連盟は10月15日に非加盟国の米国をオブザーバとして招致することを可決し、24日に期限付きの撤兵勧告を採択した。反対は日本だけ。

 日本国内でも、クーデター計画が進行していた。橋本少佐は桜会を結成し、1931年に宇垣陸相をかつぐクーデターを立案、陸軍内部にも賛同者がいた。国家主義者の大川周明と組んだ計画だったが、実行はされず、三月事件として密かに伝えられた。
 橋本ら桜会は満州事変後も新たなクーデターを計画。首相官邸を襲撃して首相や政財界の要人を殺害し、荒木貞夫陸軍中将を首相とする軍部内閣を樹立しようとするもの。これは事前に洩れて、橋本らは憲兵隊に検束された。決行予定が10月だったので十月事件と呼ばれる。橋本らは軽い処分を受けただけだった。若槻内閣は事件を公表しないという閣議決定をした。若槻内閣は、1931年12月11日に総辞職した。

 若槻内閣総辞職の翌日、元老西園寺は政友会総裁の犬養毅を後継総理大臣に推薦した。政友会の単独内閣である。犬養内閣で注目すべきは、大蔵大臣の高橋是清である。高橋は組閣直後に金輸出を再禁止し金兌換も停止した。もう一つ注目すべき事は陸軍大臣に荒木貞夫が就任した事。陸軍中堅層の宿願の実現だった。犬養内閣は翌年の2月に総選挙を実施する。政友会は301名という空前の多数を獲得した。民政党は146名。

 1932年1月末に上海事変(第一次)が起きる。上海で日蓮宗僧侶が殺害される事件がきっかけだが、陸軍の田中隆吉少佐による謀略であった。戦後、田中自身が認めている。上海で戦闘が行なわれている頃、満州では関東軍による「満州国」建国の動きが進んでいた。1932年2月に、関東軍が工作して集めた地方の有力者から成る東北行政委員会が独立を宣言、3月1日に溥儀を執政とする「満州国」の建国が宣言された。建国宣言を急いだのは、国際連盟のリットン調査団が来る前に「建国」の既成事実を作るためだった。

 三月事件、十月事件は未発に終わったが、1932年初めに、血盟団事件と呼ばれるテロ事件が発生。2月9日に井上準之助前蔵相が、3月5日に三井合名理事長の団琢磨が、いずれも拳銃で射殺された。血盟団グループが検挙された後、1932年5月15日、海軍青年将校の三上卓らは首相官邸を襲い、犬養首相を射殺した。

 西園寺は5月22日に海軍大将の斎藤実を総理大臣に奏請した。高橋蔵相と荒木陸相は留任した。不況の克服と陸軍の動向が政局運営の焦点だった。

 満州事変勃発後に、様々なメディアによる報道が国民の熱狂的な支持を創り出していた。報道の中で使われた「生命線」という言葉が最も効果的に機能した。松岡洋右が1931年1月の衆議院本会議の議会演説で使ったのが有名である。この年の流行語になった。

 世界恐慌は1934年に収束するが、世界経済に大きな変化をもたらし、ブロック経済的な傾向が支配的になる。日本は1932年から景気回復に入り、かつてない経済発展を迎えた。高橋是清は、円の為替レート低下を放任、低金利を維持し、財政支出を激増させた。政府支出の膨張は、満州事変費を中心とする軍事費、時局匡救費という名目の不況対策の公共投資であり、日銀引き受けによる赤字国債の発行という新手法が取られた。工業生産の水準は飛躍的に増大した。この時期、軍需産業を足場に、「新興財閥」が急速に成長した。日本産業(日産)、日本窒素肥料、昭和電工、理化学研究所(理研)、中島飛行機などである。

[日産コンツェルン](ウィキペディアより)
 日本の十五大財閥の1つ。鮎川財閥とも呼ばれる。日立鉱山(久原鉱業、日本鉱業、ジャパンエナジー、新日鉱ホールディングスを経て現在のJXホールディングス)を源流として、機械・銅線部門を独立させての日立製作所などを加え、持ち株会社・日本産業のもとにコンツェルン化した戦前の財閥。戦後は、その自動車部門であった日産自動車が日産の名を残す後継企業としては最も大きいため、現在は同社のグループのみを指してを日産グループと呼ぶことが多い。


# by utashima | 2013-12-04 19:23 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『帝国の昭和(日本の歴史23)』(有馬 学著)の第2章

第二章 ワシントン体制の変容と日本

 政党内閣時代の国際秩序は、ワシントン体制と呼ばれている。背景には英国に代わって主要なパワーとなった米国の台頭がある。ワシントン体制の根拠は、ワシントン会議(1921~1922年)で調印された諸条約である。ワシントン条約締結の時期は、ソ連は東アジアに積極的な外交を展開する余裕は無く、中国も政治的分裂ために、列強は中国・ソ連の要求を無視できた。しかし、1920年代半ばから、ソ連の積極的な極東外交展開と中国国民党による国内統一の開始(北伐)が密接に結合して(国共合作)、ワシントン体制に変容を迫る事になる。

 1924年の中国国民党第一回全国代表大会は多くの中国共産党員を中央執行委員などに選出し、第一次国共合作が成立した。蒋介石を校長として開学した黄埔軍官学校にも周恩来などの共産党員が政治部などに参加していた。背景に、ソ連とコミンテルンの強力な援助・工作があった。しかし、国民党は一枚岩ではなく、国共合作は永続せず、永い内戦をもたらした。

 1926年7月、蒋介石は国民革命軍総司令に就任し、北伐を宣言する。国民革命軍による武力統一の大事業が開始された。国民革命軍の進撃は反帝国主義の熱気の中で行なわれたため、列強との軋轢を避ける事は困難だった。1927年3月24日、国民革命軍は南京に入城。ここで日本、英国の領事館や米国系大学などに侵入し、略奪・暴行をはたらき死傷者を出した。いわゆる南京事件(1937年の南京事件とは別物)である。この時の日本側は、武力行使を避け隠忍(いんにん)策に徹した。国民革命軍の外国人への暴行は、共産党やソ連顧問の使嗾(しそう:指図してそそのかす)によるものが多かった。そのためもあって、1927年4月12日、蒋介石は上海で反共クーデターを起こす。9月6日には南京を首都と定めて、蒋介石が国民政府主席となった。1928年6月8日に国民革命軍は北京に入城し、北伐は一応の完了を迎えた。7月7日には国民政府は不平等条約の改定を宣言する。米国は7月25日に米中関税条約に調印し、中国の関税自主権を承認、11月3日には国民政府を承認した。英国もこれに追従した。日本は1929年6月に国民政府を承認した。

 北伐が進行していた1927年4月に、政友会総裁の田中義一が組閣した。北伐の進展に対し、田中内閣は1927年6月に第一次山東出兵を実施した。これは上記の南京事件などを念頭に置いた予防策と考えられる。英国、米国も出兵している。田中外交の当初の意図にも拘らず、対中関係を悪化させたのが済南事件であった。1928年4月半ばに国民革命軍は山東省の済南に迫った。田中内閣は4月19日に第二次山東出兵を閣議決定した。主力の熊本第六師団が5月2日に済南に到着。同日に蒋介石も済南に入っている。軍事衝突は翌3日に発生した。発端は商埠地(しょうふち:治外法権を与えず、単に外国人の居住や経済活動を保護する目的で設定された領域)内の日本人家屋に国民革命軍兵士が侵入した事をめぐる発砲事件とされる。どちらが先に発砲したかは日中の言い分が異なる。5月5日に一旦停戦したが、福田師団長は中国側に、関係者の厳罰や軍隊の立ち退き等の強硬な要求を出し、12時間の時間切れを理由に攻撃を再開、一般市民を含む多数の死傷者を出して済南を占領した。占領後の交渉で、田中は蒋介石軍による北伐の速成を期待しており、蒋介石軍に鉄道利用の便宜を図るよう参謀本部に要請していた。しかし、陸軍出先と参謀本部は、蒋介石軍に対し謝罪を含む強硬要求を譲らなかった。一時期英国に向きかけていた中国ナショナリズムの反感が、一気に日本に向かって来るようになった。

 田中内閣は、東三省を治める張作霖及び中国本土の蒋介石と交渉しつつ日本の権益を守るという等距離外交を考えていたが、1928年6月4日の張作霖爆殺事件により、田中外交は崩壊する。爆破そのものは関東軍高級参謀河本大作の独断による事は今日明らかになっている。しかし、全体的には不透明なところもある。張作霖の後継車となった息子の張学良は、国民政府と妥協する。

 田中内閣は1929年7月2日に総辞職する。張作霖爆殺に関し一旦関係者の厳罰方針を上奏していた田中が、6月27日になって「日本の陸軍には犯人はいない事が判明」したので、警備責任者の行政処分に留めると言う上奏を行なったため、天皇から「お前の最初に言った事と違うじゃないか」と叱責され、辞表を奉呈した。しかし、この問題のプロセスは、今日でも詳細にわたっては不明な点が残されている。

 田中内閣の総辞職の後、西園寺は民政党総裁の浜口雄幸を総理大臣に推薦した。1930年1月、金輸出を解禁し、金本位制に復帰した。浜口内閣は、金解禁・緊縮財政・産業合理化を推進した。この時の産業合理化は、企業の合同やカルテルの結成などを通して産業全体の合理化を目指すものであり、競争を排除し、過剰投資を抑制し、販売価格の維持を企てる独占体の形成を目論んだ。自由競争ではもはや難局は乗り切れないという資本主義経済の終末意識があったのではないか。この頃の民政党の政策として、ギルド社会主義の可能性が議論される雰囲気があった。

[ギルド社会主義とは(デジタル大辞泉より)]
 20世紀初め、英国に起こった政治・社会運動。当時の国家や資本主義に反対し、中世のギルドを模して労働組合を基盤につくられた産業の民主主義的連合によって、自治的社会主義を目ざす運動。


 1921~1922年のワシントン会議で海軍主力艦の保有量制限が決まり、次に補助艦の保有量を制限する会議が1930年1月からロンドンで開催された。日本側の要求より幾分少ないトン数であったが、軍令部長の賛成を得ずに、統帥事項である兵力量に関する条約を調印した事に対し、憲法12条に規定された統帥権の干犯であるとの論理が登場した。この事がその後の政治に重大な影響を及ぼした。政党内閣に反対し、幣原外交に反発する勢力のうねりが、1930年代の日本政治の一翼をなしていく。

 1930年11月14日に浜口首相が、東京駅で右翼青年に拳銃で撃たれ、重傷を負った。翌年4月に内閣は総辞職、若槻礼次郎が民政党総裁に就任し、第二次若槻内閣を組織した。浜口は8月に死去。第二次若槻内閣は、殆どの閣僚を留任させた。幣原外相、井上蔵相も留任し、英米協調・金本位制・緊縮財政堅持を目指した。

# by utashima | 2013-11-28 21:27 | 読書 | Trackback | Comments(0)

Sleipnir5の使用を断念

 昨日から自宅でSleipnir5の使用を開始。今まで使ってきたSleipnir4の後継であり、文字表示がより綺麗になっている事から、使おうとした。但し、タブ表示が従来のテキストでなく、各サイトの微小イメージに変更になっている。これは使い辛いかもと思ったが、使用を開始した。

 今日、ブログ記事を、Sleipnir5で作成しようとした。記事作成時には沢山のサイトにアクセスし、必要な時にすぐに切り替える必要がある。Sleipnir5のイメージ・タブでは、全タブを表示できず、非常に操作性が悪い事を実感した。よって、再びSleipnir4に戻した。
# by utashima | 2013-11-23 22:03 | パソコン | Trackback | Comments(0)

ESAの新大気モデル(DTM2013)

 2013年11月11日に落下したGOCEのデータから作成された報告書を読んで、ESAの大気密度モデルを知った。DTM2012である。DTMはDensity Temperature Model の略である。このモデルは、こちらのサイトからダウンロードできる。但し、事前に登録が必要。誰でも登録できる。幾つかの OS 上で動作するようだ。pre-compiled library が提供されている。ライブラリ自体のソースコードは含まれない。

 この記事を書くために上記サイトに再びアクセスすると、新版のDTM2013も公開されていた。DTM2013にはGOCEで得たデータも反映されているらしい。
# by utashima | 2013-11-23 21:44 | 宇宙開発トピックス | Trackback | Comments(0)

GOCE データによる大気モデル評価

 2013年11月11日に、ESAのGOCE がミッションを達成し、燃料切れで落下した。

GOCEは2009年3月17日にロシアのロコット・ロケットで、昇交点地方時18時の太陽同期軌道に投入され、高度295kmでロケットから分離された。大気抗力で高度を下げた後、イオン・エンジンの連続噴射により、高度260km付近を Drag-free で飛行。2012年8月からは高度を235kmに下げて運用を行ない、世界で最も低い高度を周回する衛星であった。GOCEの目的は、100km程度の地表分解能でジオイド高を約1cmの精度で求める事であった。

 落下した後、すぐにネットで調べると、GOCEの加速度計などで得られたデータから大気密度を求め、既存の幾つかの大気モデルと比較した報告書が見つかった。こちらのサイトに公開されている。詳細な数値データは、一部の研究者だけがアクセスできるようだが、そのサイト下のdocumentation欄の資料は誰でもダウンロードできる。validation reportfinal report は大いに参考になる。これらは、サイズの大きいPDFファイルである。
# by utashima | 2013-11-23 20:27 | 宇宙開発トピックス | Trackback | Comments(0)


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