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今日、View Suica カードの更新用新カードが送られて来た。普通のクレジット・カードに比べて、更新手続きが面倒だ。旧カードに、JR東日本で使える金額がある程度残っている。その金額は、新カードに引き継がれないために、面倒な事が要求されている。近くの駅に ViewAltte があれば、そこで残金の払戻ができるが、私の近所の「ひたち野うしく駅」には、ViewAltte が置かれていない。そのような人は、旧カードにハサミを入れて返送してくれ、と書いてある。
そこで、返信用封筒を探したが、入っていない。仕方なく、封筒代と郵便料金を自分で負担。普通のサービス会社では、このような場合、返信用封筒(切手不要)を同封している。JR東日本には、サービスの改善をお願いしたい。 数日前、リビングの照明器具(28W丸型蛍光管×4)の一つの蛍光管が消えていたので、新しい蛍光管と交換してみた。交換しても、点灯しない。調べて見ると、蛍光管ではなく、電子安定器(インバーター)の故障と判断した。製造メーカーに問い合わせると、その型の電子安定器はもう製造していないと言われた。17年前の製品なので、仕方ないか。新しいシーリング・ライトに取り換える事にした。要求条件は、11畳用である事のみ。ネットで色々な製品を調べていると、LEDシーリング・ライトが大して高くない事を知った。3万円程度で12畳用のものが買える事が分かり、近所の家電量販店に行き、店員の話を聞きながら選定した。購入したのは、東芝製のLEDH95002Y-LC。27800円だった。消費電力78W、LEDの寿命は4万時間。約10年間の寿命である。今まで使っていた蛍光管式照明器具の17年寿命に比べると約10年は短いように思われるかも知れないが、その10年間、管の交換をしなくて良いのは大きい。 昨日、LEDH95002Y-LCを取り付けた。明るさを1%~100%まで自由に変えられる。色調も、赤っぽい色から青っぽい色まで、変更できる。電気使用量も3割程度減る。
第2章 社会的権力--豪商と町
近世社会において、在地社会における村方地主と、都市域の有力商人=大店層を、社会的権力として想定できる。 幕府は、享保改革の時期に、それまでの方針を変え、質地集積を容認し、質地地主化した村方地主が在地社会を統括する力量を有する事に着目し、彼らを支配機構の末端に組み込み、重要な役割を担わせる事にした。このような背景の中、質地地主層は18世紀後半に急激に豪農に変態を遂げてゆく。 次に、都市域における有力商人を社会的権力という点から見る。社会的権力となった大店(おおだな)と呼ばれる有力商人が、いつ成立したかはまだ充分に解明されていないが、三井越後屋の事例から見て、少なくとも京都では17世紀中頃が一つの画期をなすと考えられる。17世紀末~18世紀前半には、三都をはじめとする全国の諸都市域において、大店が一般的に形成されたと推測できる。 以下では、三井越後屋を大店の事例として取り上げる。 『煕代勝覧』の画面のほぼ中央に、超大店となった三井越後屋が描かれている。三井家は、江戸、大坂、京都において大量の町屋敷を抱えていた。江戸に80~100ヶ所、大坂に十数ヶ所、京都に80~90ヶ所。これらの大半は、地借・店借に賃貸された。三井家の骨格は、17世紀末までには確立していた。 三井高平が1722年に記した「家伝記」と、ほぼ同時期に三男高治が著した「商売記」と呼ばれる創業の記録が、三井家の主な研究史料である。三井家は越後守高安(1610年没)を家祖とする。この人物は、近江の佐々木六角氏の家臣で、一城の主であったとされる。1568年に六角氏が滅亡後、浪人となり、伊勢に移住し、蒲生氏郷によって建設された城下町松阪に来て、治郎右衛門を名乗ったという。三井家にとっての町人の始まりである。しかし、これらがどこまで事実かは疑問という。 高安の後、長子の高俊が後を継ぐが、彼は連歌・俳諧などにうつつをぬかし商人としての事績は伝わっていない。しかし、高俊の妻、殊宝(じゅほう)が質・酒・味噌・茶・煙草などを商い、若くして後家になった後に、天性の「商心」を発揮し、その頃から越後屋の屋号を用いる。殊宝は多くの子供を産み、後の三井各営業店を生み出す源となった事から、「商売記」では「三井家商の元祖」と称賛している。 高俊と殊宝の間には4人の男子と4人の女子が生まれた。高俊の後、三井の総領家を継いだのは、長男の俊次(1673年没、66歳)である。寛永年間(1624年~1644年)の初め、俊次は三井一族として初めて江戸に進出した。場所は本町4丁目。小間物店。この店はやがて呉服店に変わり、また本町1丁目、2丁目にも呉服店を開設する。その後京都に移り、江戸向けの呉服などを仕入れる店舗を御池町に設置し、その後、三条室町に居住した。 高俊の四男の高利は松阪に生まれ、1635年に江戸に出て、兄俊次の4丁目店に勤務する。当時14歳。28歳の時、母の面倒を見るために松阪に帰る。50歳を超えるまで、松阪で金融業などを営む。高利には男10人、女5人の子供があった。長男から四男まで、江戸に出て俊次の呉服店で勤務した。高利らにとって、総領家である兄俊次の権威は絶対であり、本家支配からの離脱は容易ではなかった。 1673年7月に俊次が亡くなると、51歳になっていた高利は江戸に長男高平を送り込んだ。高平は本町1丁目の鍵屋嘉兵衛の店の後を借りて営業を開始。高利自身は京都に出て、長男高平を江戸から呼び寄せ、室町通二条下ル蛸薬師町東側の丸屋重兵衛の店舗の後を借りる。これを仕入れ店とした。俊次死後の高利の行動は非常に迅速且つエネルギッシュで、高利がこの機会を長い年月ひたすら待っていた事が窺える。この江戸と京都の小さな店舗が、近世最大の商人・三井越後屋の誕生を告げる巨大な一歩となる。三井越後屋は当時一般的な掛け売りでなく、安く売れる現金払いの方式を始めて、繁盛した。 「商売記」に、呉服仲間から営業妨害を受けた話が記載されている。福井藩主の松平家に、出入りの松屋より安く売った事が原因。大事な得意先を奪われた松屋は、本町、本石町の呉服屋と連携して、三井との取引を停止し、仲間外れとした。三井は、京都からの仕入れルートを確保し、密かに近隣の駿河町の売り家を購入して引っ越す(1683年)などして、この苦境を乗り切った。 三井は、いつ頃からか両替業にも進出した。そして、幕府の御用商人としての地位を獲得し、一層の飛躍を遂げる。 高利は1694年に自らの死期を悟り、以下の内容の遺言を残す。「高利の子供達による兄弟中という共同組織を作り、巨大な遺産を分割せずに、呉服と金融を軸に三都を中心に活動するように。」 三井越後屋は本拠を京都に置いていた。京都に初めて進出したのは、江戸の本町1丁目に小店舗を開設したのと同時の1673年。最初は室町通二条下ル蛸薬師町東側に店を持ったが、1704年に、蛸薬師町の北隣、冷泉町西側に京本店を移設した。そして、享保年間までには京都市中でも最大規模の地主となる。三井のような巨大な社会的権力の登場により、初期の町を彩った小規模な町人が次々と消滅する。
1月22日の昼前、自宅のPCのマウスがフリーズした。PCとマウスの接続を確認し問題なし。どうしようかと考えていると、液晶画面が真っ暗に。兎に角、再起動しようと思い、PCの電源ボタンを押し続けて電源を落とした。次に、その電源ボタンを押してPCを起動。
BIOS画面の後、ディスク・チェック機能が動き始めた。PCを眺めていたかったが、娘を駅まで送る時間が来ていたので、PCはそのままにして出かけた。 小一時間して帰ってみると、Windows Xp のいつもの画面になっていた。マウス・カーソルも動く。一応安心した。ディスク・チェックは済んでいると思ったので、デフラグをしようとした。Cドライブのデフラグは完了したが、Dドライブのデフラグをしようとすると、確か「chkdsk /f」を実行せよ、というようなエラーメッセージが出るだけで、デフラグには進まない。再起動直後に自動的に行なわれたチェック・ディスクは、Cドライブだけだったのだろうと思い(途中で娘を送りに行ったので、全部を見ていない)、Dドライブのチェック・ディスクも再起動して行なった。 その後も、「chkdsk /f」を実行せよ、というエラーメッセージが出て、デフラグできなかった。 そこで、以前にダウンロードしていた「UltimateDefrag」というソフトを使い、Dドライブをデフラグしてみた。デフラグできたが、6割以上フラグメンテーションが生じており、かなり時間を要した。やっと、元の状態に戻った。そして、Windowsのデフラグ機能も動くようになった。Windowsのデフラグ機能は、フラグメンテーションが酷い時には働かない。 何故、酷いフラグメンテーション状態になったのかは分からない。このPCは今年で7年目なので、何か故障が発生したのだろう。「UltimateDefrag」が無かったら、どうなっていたか。
第1章 18世紀、通史から全体史へ
18世紀の日本をめぐる東アジアの国際環境は、前後の世紀に比べても格段に穏やかであった。17世紀半ば以来続いた華夷変態(中華=明が滅び、蛮夷=清が中原を征する)の最終過程で、清に協力した漢人軍団による大規模な反乱(三藩の乱)が1681年に平定され、東アジアの国際情勢は静謐となった。 ロシアと中国の関係は、1689年のネルチンスク条約によって国境が定まり、安定した状態に入った。 幕府が直轄する唯一の貿易システムである、長崎を介してのオランダ・中国との関係は、1715年に発令された正徳新例によって枠組みが定められ、幕末の外圧に至るまで続く。 18世紀の徳川将軍は、以下の通り、7代にわたる。 5代:綱吉(在位1680~1709年) 6代:家宣(在位1709~1712年) 7代:家継(在位1713~1716年) 8代:吉宗(在位1716~1745年) 9代:家重(在位1745~1760年) 10代:家治(在位1760~1786年) 11代:家斉(在位1787~1837年) 綱吉政権の末期の1707年(宝永4年)11月に富士山が大噴火している。家宣は、新井白石などを側近に置き、生類憐み令を撤廃し、幕領代官の粛正、貨幣改鋳、正徳新例など、改革を進めた。「正徳の治」という。家継は、家宣の四男。母は側室で浅草唯念寺住職の娘・月光院(お喜代)。徳川15代の中で最年少で将軍になった人物。1713年4月2日、将軍宣下を受けて第7代将軍に就任。この時、4歳にもなっていなかった。 家継の死により、秀忠の血統が途絶えた。初めて、御三家の一つ紀州藩徳川氏から将軍を迎えた。吉宗である。吉宗は、家康の曾孫に当たり、1705年から紀州藩主となり、財政再建を軸とする藩政改革を実施中だった。 吉宗は、老中の合議制ではなく、新たにおいた御用取次と旧来からの三奉行(寺社、町、勘定)を権力の中枢に置く。町奉行には、大岡忠助を任じた。現在では大岡越前として知られている。 吉宗は、自身の血統を強化する観点から、新たに、世子家重の弟宗武に田安家を、末弟宗尹(むねただ)に一橋家を興させ、宗家の継承権を持たせた。後に、家重が次男重好に創始させた清水家と併せて、吉宗直系の御三卿がこうして設立された。 吉宗の政治(享保改革)の柱は、年貢増収政策、通貨政策、都市・農村政策である。年貢増収政策では、山野河海を対象とする新田開発が有力商人の資金を活用して精力的に実施された。開発された新田は、幕領に編入され、その結果、1722年に410万石であった幕領石高は、50万石、12.2%も増大した。 吉宗は、1745年に将軍を辞し、1751年に没するまで西丸の大御所として9代将軍家重を後見した。家重は病弱で、1760年には将軍職を長男家治に譲った。9代・10代の時期の政治において、脆弱な将軍を補う形で幕閣に君臨した田沼意次の存在が大きい。1767年には側用人、1772年には老中となった。1750年代終わり頃から失脚する1786年までを田沼時代と呼ぶ。田沼時代を彩るのは、流通政策、蝦夷地開発政策、印旛沼開発計画、一揆対策など。 天候の不順や浅間山の大噴火(1783年)などを契機にして、東北地方を中心に全国レベルで未曾有の規模に達した天明飢饉と、困窮した民衆による一揆・打ちこわしが全国の都市や在地社会で荒れ狂う中で、1786年、将軍家治が没し、直後に田沼意次が老中を罷免される。1787年、15歳の家斉が11代将軍になる。その年の5月に、30歳の松平定信が抜擢されて老中首座となり、家斉を補佐し、田沼派を一掃して寛政の改革が開始される。 定信は、田安宗武の子、すなわち吉宗の孫である。一度は家治の世子になりかかったが、田沼等に妨害され白河藩松平氏に養子に出され、1783年に白河藩主となっていた。寛政の改革のポイントは、①年貢減免、人返し等による農村政策、②特権商人の市場独占を規制し、都市商人資本を抑圧、③飢饉や貧困に対する恒常的施策、等。 将軍の直臣で御目見(将軍に謁見できる格)以上の武士身分の内、1万石以下を旗本といい、1712年に約5400家にも達した。大半は500~3000石の間に分布した。 村は、1722年当時、全国に6万3976を数えた。1村当たりの平均石高は408石、平均人口は404人とされている。町は、全国で1万程度あり、1町の人口も300~400人とみられる。 江戸の町を描いた『熙代勝覧(きだいしょうらん)』という絵巻物が、ベルリン国立アジア美術館(通称・ダーレム博物館)に展示されている。これは、1950年代にあるドイツ人医師が日本滞在中に入手したもので、1980年代に他のコレクションと共に同館に寄贈されたという。細かい入手経路などは未詳。縦0.44m、横12.3mの長大な絵巻。作者は未詳で、制作年は1805年という。18世紀が達成した巨大都市・江戸の成熟が描かれている。 熙代勝覧は、神田の今川橋から日本橋通りを約700m南下して日本橋に至る街路を、東側上空から俯瞰する形で描写されている。熙代勝覧のコピーは、2009年11月から、東京メトロ「三越前」駅地下コンコース壁面に常設展示されている。また、こちらのサイトから8.5MBのJPEGファイルとしてダウンロードできる。お楽しみ下さい。
今年の12月9日から『銀星囲碁12』を使い始めた。4段に設定した対局では、私の勝率はかなり小さかった。では、どの程度の段級位なら、ほぼ互角となるかを知りたいと思い、3段、2段、・・・、5級、6級と設定を変えて対戦してみた。3段、2段、と落して対戦しても、勝率は上がらない。流石に5,6級にすると、十分勝てるようになったが、試合の後半になると、目を取られて危ない場面もあった。とても、6級の力でできる技ではないと感じた。段級位の設定が有効なのは、序盤から中盤にかけて、だけではないかと考えている。対戦してみての印象である。読みの深さは、低位の段級位に設定しても、かなり高レベルと思っている。
従って、例えば1級に設定しても、人間の1級の人よりは強いと思う。考えてみれば、囲碁ソフトは、棋力を高める事に重点を置いて来ており、例えば1級の人の実力を再現する事は目的ではない。3級程度の人が4段の実力の『銀星囲碁12』を使う時は、3級に設定して対戦するよりは、4段の設定にして5~6目置いて対戦すべきであろう。置き碁を好まない人は、自分の力より少し強い銀星囲碁のバージョンと対戦するのが良いであろう。 私は、今後は、4段(ソフトの制限時間15秒)と互先で対戦して、鍛えて貰おうと思っている。『銀星囲碁12』に鍛えられたお蔭か、この12月のWWGoでの成績は、4勝0敗であった。 2011年も今日が最後。紅白歌合戦を見ながら、この記事を書いている。今年は、悲しい思い出が多過ぎた。東日本大震災、原発事故、兄の急死、義父・義母の相次ぐ入院。幸い、義父・義母は退院でき、自宅で新年を迎えられる。
第7章 開けゆく書物の世界
江戸時代初期、大坂周辺の村落や町の庄屋・商人クラスでは、数百冊の蔵書を持つ者は珍しくなかった。内容は、儒学書・漢詩文書・医学書・仏教書・軍記物・歴史書・浮世草子・手習書・辞書・料理書など。 1630年代辺りから出版され始めた整版本(*1)は、17世紀半ばから元禄にかけて大きく発展していく。元禄10年(1697年)頃、大坂に30軒、江戸に16軒の本屋があり、京都の出版を重板するだけでなく、独自の出版活動も行なっていた。出版は行なわないが、販売・取次・小売りを専門にする本屋もあり、行商という形での販売も存在した。行商本屋が月に数回、回村し、販売だけでなく目録での注文にも応じていた。次に回村するまでの貸本も行なっていた。 [(*1)整版本とは] 1枚の木板に文字を浮彫にして墨を塗り紙を置いて印刷された本。この木板を整版と言う。 当時の出版界には板権の問題があった。板木が本屋の財産となりつつあったが、重板や類板(*2、3)によって本屋の経営が安定しなかった。元禄12年(1699年)に京都町奉行所は重板類板禁止の町触を出した。本屋仲間からの願い出によって出された。 [(*2)重板・類板とは(by 柏崎順子氏)] 江戸時代の出版業は板株と称する利権によって成り立っていた。板株とはいわゆる版権のことで、一度取得すると、他の出版業による重板・類板を禁じて、無制限に当該書の出版による経済的利益を独占することができた。そのため、出版の発祥地京都の出版業者が、古典など将来的に安定した販売を期待することができる書物の板株を多数所持して、強固な経営基盤を構築することに成功したのに対して、遅れて開業した江戸の出版業者は終始不利な経営を強いられることになった。とりわけ江戸の出版業者を悩ませたのは、類板の認定が板株所有者の恣意に委ねられていることであった。 [(*3)重板・類板とは(江戸時代の著作権より)] 現在の複製権や出版権と似た「重板」という権利があり、また同じような書物や抜粋版などを出す「類板」という権利もあった。 大阪の書籍商仲間が重板・類板禁止の取り決めをお上に申し出るのが元禄11年(1698年)で、聞き届けられるのが同年8月22日であるから、近代的な著作権法の始めと言われているイギリスのアン法の1710年よりも早かったことになる。 この頃、井原西鶴や貝原益軒が活躍した。益軒は筑前福岡藩の藩儒であった。藩儒とは、藩主に仕えた儒学者。1630年12月に生まれ、1714年10月に死去している。益軒は、藩主の参勤交代に従って上洛・参府する事も多く、その時にしばしば本屋の店先を回っている。帰国してからも、江戸や京阪の書肆(しょし)へ書状で注文したり、上洛する藩士に頼んで代銀を届けて貰ったりしている。その頃既に福岡城下や博多にも本屋は存在していたが、専門書はやはり京阪で求める事になったようだ。益軒の蔵書は、数千冊にはなっていたと思われる。その蔵書は、上層知識人たちの地域図書館的役割を果たしていた。益軒の著書は、生涯に60部270余巻に及ぶが、当時、本を出版するには、50部程度の著者入銀分を負担する必要があった。 元禄10年(1697年)、日本で初めて「農書」が出版された。宮崎安貞の『農業全書』である。農民のための書物が出版された事は、出版史における画期であった。宮崎安貞は1623年の生まれ。安貞は25歳の時、福岡藩に200石で仕えたが、35歳の頃、辞職し、以後40年間、筑前女原(みょうばる)において農事を業とした。『農業全書』が貝原益軒の斡旋により、京都の書肆から刊行されたのは、安貞が75歳で死の床に就いていた時だった。この本は大きな反響を呼び、幕末まで版を重ねた。 享保期の蔵書目録には、全体の1/3を占める73部338冊の医学書があった。医師も、18世紀半ば過ぎには、数ヵ村に1人位の密度で分布していた。
12月9日から『銀星囲碁12』が発売されている。アマチュア4段の力という。私は、『銀星囲碁10』を持っているが、同11は購入を見送っていた。4段という文字を見て挑戦したくなり、購入した。
ソフトの強さランクを、6級から4段までの任意のものに指定できる。ソフトの思考時間は、15秒、30秒、60秒、無制限の中から設定できる。今の所、4段に設定しての対局のみ実施してみた。思考時間は、全て試みた。その結果を以下に記します。 (a)4段、無制限での対局結果 1勝13敗 (b)4段、60秒 での対局結果 0勝 1敗 (c)4段、30秒 での対局結果 1勝 6敗 (d)4段、15秒 での対局結果 1勝 5敗 私の実力より、確かにランクが上である。時間無制限でも、大抵は30秒程度で打って来る。15秒にしたからと言って、弱くなる訳ではない。多少は打ち易い感じがあるが、上記のように、1勝5敗である。ソフトと対戦していて、30秒以上の時間を使われると、正直言ってイライラする。つい、横にあるテレビを観たりして、集中できない。しかし、15秒以内で打ってくれると、本当に集中できる。 (d)の1勝も、実は、ソフトが最後のポカをしなければ、私が1.5目負けていた。ここまで30局弱対戦し、明らかなポカは、これ1つであった。このポカを、以下に示す。 ![]() 右上端に白(私)が当たりした時、継がずに243(黒)と打てば、黒(ソフト)が1.5目勝っている。ところが、ソフトは、当たりに継いでしまった。私が243に白を打ち、黒を取って逆転した。 このソフトは、厳しい手を打って来るので、私も厳しく応対するが、こちらの読みが悪いと、潰されて投了の羽目になる。何度か、そのようになった。しっかり読んで、最後まで戦っても、数目負ける。1局の間に、何度か感心するような手を打たれる。4段、15秒制限での対局は、私にとって、とても良い師匠になっている。御蔭で、ネット対局の12月の成績は、良い。 この後は、3段や2段の設定で、対戦してみたいと思っている。
特集「東北地方太平洋沖地震の科学」が掲載されている 『科学』2011年10月号(岩波書店発行)を読んだ。特に興味を惹かれたのが、田中佐千子氏による『月や太陽の引力が地震の引き金に』と、日置幸介氏による『超高層大気は巨大地震の発生を知っていたか?』という記事である。
『月や太陽の引力が地震の引き金に』 東日本大震災(2011年4月1日の持ち回り閣議で3月11日の地震による震災の名称を「東日本大震災」とすることを了解、これ以降メディアなどにおいても「東日本大震災」の名称に統一された)後も度々大きな余震が発生し、約1ヶ月の周期で余震が活発になっている印象を持っていた。田中氏の記事によると、東日本大地震の震央をほぼ中心とする200km×200kmの領域の1970年代から現在までの地震の発生時刻と地球潮汐の相関が、2000年頃から高くなっている。著者は、「巨大地震の発生が近づくと、地球内部に歪が十分に溜まった状態になり、地球潮汐の僅かな力が引き金となって地震が発生すると考えられる。」と記している。 『超高層大気は巨大地震の発生を知っていたか?』 東日本大地震の直前にGPSによって見出された超高層大気(電離圏)の異常について紹介されている。GPS衛星から送信されたマイクロ波は、電離圏通過時に電子による僅かな遅延を受ける。この遅延量を測れば、衛星と受信機を結ぶ視線上にある電子の総数(TEC, Total Electron Content)が分かる。 公開されている国土地理院GPS連続観測網のデータを使い、東日本大地震の前後のTEC変化を調べている。それによると、大地震発生の60~40分前にTECの正の異常が始まり、地震の約10分後に消えている。地震の約10分後には、地震時電離圏変動と呼ばれるTECのノイズのような変動が発生して暫く続く。これは、地震による地面や海面の上下運動によって生じた音波が電離圏に達して電子の粗密を作ったもの。 他のM9クラスの地震でもこの現象が見つかっている。しかし、M8クラスでは、地震前のTEC異常は確認できないと言う。著者は、このTEC異常は、M9クラスの巨大地震でようやく見える前兆ではないかと考えている。
2011年12月13日のJPLからのNASAニュース 『NASA Mars-Bound Rover Begins Research in Space』で、今年11月26日に打ち上げられ火星に向かっている火星ローバーCuriosityが、火星までの8ヶ月間の宇宙機内の放射線測定を開始した事を知った。2012年8月に火星に着陸した後も、放射線の測定を続ける。
今までの探査機では、探査機の表面かその近くで計測していた。今回は、将来の有人火星探査に備えて、宇宙船内部に居住する人間にどの程度の放射線被曝があるかを正確に見積もるようだ。先日国際宇宙ステーション(ISS)から帰還した古川宇宙飛行士は、地球周回軌道に約5.5ヵ月滞在したが、その間に地上の人間の100年分の放射線を浴びたと言われている。ISS はシールドの役目も持つ地球磁気圏内を飛行しているが、火星飛行ではシールドのない宇宙空間に長期間滞在する事になり、宇宙飛行士にどの程度の放射線が降り注ぐのか気になる所である。 [補足] 上記の JPL サイトは、以前から Internet Explorer ではうまく動作しない事が多かった。今回も、画面がなかなか切り替わらない。私が使っているブラウザは、Lunascape 6.5.8であるが、これは、Trident(IEエンジン), Gecko(Firefoxのエンジン), Webkit(Google Chromeのエンジン) という3つのエンジンをタブ毎に切り換えて使う事ができる。Trident をデフォルトのエンジンに設定している。そこで、JPL サイトだけ Geckoエンジンに替えると、正常に表示されるようになった。 今日、我が家の玄関に手摺を設置して貰った。手摺を設置する事にしたのは、足の悪い義母が退院したからである。義母は9月17日に救急車で運ばれ、入院した。約2ヶ月半の入院の後、12月2日に退院した。入院の直接の原因は高血糖症であったが、高齢(80歳)のため、他にも色々病気を抱えている。以前から膝が悪く、退院後も普通に歩く事は難しい。室内も車椅子で移動する事が多い。 我が家の玄関の外には2段の階段があり、足元の覚束無い高齢者には危険なので、写真のように手摺を設置して貰った。まだコンクリートが固まっていないので、触らないように張り紙を付けている。義母だけでなく、義父も足が弱くなっており、いずれ私もこの手摺のお世話になるだろう。
第6章 文治政治の陰翳(いんえい)
1651年4月20日、三代将軍家光は48歳で病没した。後継者の家綱はまだ11歳。老中の阿部重次と側近の堀田正盛が殉死した。残った老中達による集団指導体制となった。 1651年7月、由比正雪ら牢人の反乱計画が露見し、江戸で丸橋忠弥らが逮捕され、正雪は駿府で包囲されて自殺、大坂では金井半兵衛も8月に自殺した。これを慶安事件という。計画では、江戸城を占拠し、正雪は久能山に立て籠もる予定だった。正雪の遺書に「天下の制法が無道で、上下の者が困窮している。大老の酒井忠勝らを追放させるために籠城する」と書かれていた。 ウィキペディアには、「この頃、幕府では3代将軍徳川家光の下で厳しい武断政治が行なわれていた。関ヶ原の戦いや大坂の陣以来、多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増しており、再仕官の道も厳しく、巷には多くの浪人があふれていた。そうした浪人の一部には、自分たちを浪人の身に追い込んだ「御政道」(幕府の政治)に対して批判的な考えを持つ者も多く、また生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も存在しており、これが大きな社会不安に繋がっていた。正雪はそうした浪人の支持を集めた。」と書かれている。 更にウィキペディアによると、「武断政治というのは、武力を背景にして行われる専制的な政治のこと。主に江戸幕府初期の、徳川家康から徳川家光までが行なった政治姿勢を指す。家光の時代には、取り潰される藩も多く、浪人が増え、社会問題化した。慶安事件などを機に、4代将軍徳川家綱が、文治政治への転換をすすめた。」とある。 1651年12月、末期養子の禁が緩和された。大名の相続はあらかじめ嗣子が届けられていなければならず、末期つまり死の直前に養子を定める事は認められていなかった。この無嗣子による改易が大名改易全体の4割を占めていた。そのため、藩主が50歳以下で、養子が筋目正しい場合は、末期でも認める事にした。この措置は、改易の減少によって、牢人の発生を防ぐ意味があった。 1659年、19歳で元服した家綱は、明暦大火(1657年)後に再建された本丸殿舎に入った。1665年、証人制が廃止された。証人制は、御三家・家門三家・10万石以上を中心とする有力大名29家において、その家老や有力家臣の実子惣領等を江戸に置かせる制度。大名の領国統治が未熟な段階で、大名が安心して領国を離れて江戸に集住できるように、国元における有力家臣の人質を幕府が確保したもの。 1680年5月、家綱は40歳で病没した。家綱には子が無く、末弟で35歳の館林(群馬県)藩主綱吉が養子として跡を継いだ。綱吉にとって、予期せざる将軍就任であった。綱吉の「御代始」の改易は、越後騒動に関係したものだった。これは、越後高田藩26万石の御家騒動。藩主松平光長の嫡子が1674年に死んだ事から起きた後継をめぐる争い。綱吉は、争いの両者を切腹・流罪とし、光長も領地没収、伊予松山配流となった。 綱吉は、新しい老中の堀田正俊に代官の綱紀粛正を指示した。堀田正俊は、代官職務規定を出し、「民は国の本也、御代官の面々常に民の辛苦を良く察し、飢寒等の愁これなき様申し付けらるべき事」などと、代官の心構えを説いた。綱吉の「仁政」宣言である。綱吉政権期の29年間に幕府代官のほぼ半数にあたる34人が粛清されている。 1684年8月、大老の堀田正俊は江戸城内で若年寄の稲葉正休に刺殺され、正休もその場で殺された。私怨と言われるが真相は謎である。以後、綱吉は大老を置かず、館林藩時代からの側衆の牧野成貞を1681年から側用人に取り立てた。綱吉は側用人を通じて老中合議などの外から統御する方式を取った。柳沢吉保の場合は、1688年に側用人となり、老中にはならず1706年に大老格となっている。 綱吉政権期の評価を左右しているのが、生類憐み令であろう。「犬公方」といわれる言葉からも犬愛護令が良く知られているが、塚本学氏によると、捨牛馬禁止令、捨子禁止令、飲酒・造酒統制令、鳥獣保護令、鷹狩停止など、より包括的な政策であった。1687年からこれらの法令が次々と出される。1694年戌年に犬に関わる触を頻発、翌年から四谷や中野の犬小屋への4万匹を超える大規模な収容が始まる。NHKテレビの「ブラタモリ」でも中野の大規模な犬小屋の話が登場。 生類憐み令とほぼ並行して、服忌令(ぶっきりょう)が出された。服忌令とは、親類・縁者が死没した際、喪に服する期間などを定めた法令。『服』は喪に服すること、『忌』は期間を指さし、『忌』の期間には出仕を控え、魚肉を避け、髭や髪を剃らず、神仏の参詣をやめるなどした。1684年に最初に制定され、数回にわたり改定された。実の父母が死亡した場合、忌引は50日、服喪は13ヶ月となる。親疎関係に応じて忌3日、喪7日まで、6段階に整理された。 1709年に綱吉が死んだ後、綱吉の遺言にも拘らず、幕府は犬愛護令や鳥獣保護令などを撤廃した。寛永飢饉から断続的に続いた天候不順も、綱吉が将軍になった1680年頃を境に落ち着き始め、庶民レベルでも経済的余力を生み出し始めた。
久し振りに飛行機の本を買って読んだ。『ボーイング787 vs. エアバスA380』(ブルーバックス)である。航空工学科の学生だった頃は、当時の殆どの戦闘機や旅客機を知っていたが、20年位前から、それらに対する興味がなくなっていた。エアバスはどのようなシリーズを開発して来たのか、ボーイングの最近のシリーズはどんな特徴があるのか等は、殆ど知らない。ただ、戦闘機のF-35がどうなるかは、気になっている。
そのような中、ボーイング787が登場し、少し興味を持った。それで、表記の本を読んでみた。この本を読んで知った事を幾つか記す。 (1)「787」は、2003年頃に付けられた「7E7」のままで良いのではという意見がボーイング社内で少なくなかった。中国が「787」に変更するよう強く求めたようだ。8は中国でも縁起が良いので。 (2)「787」では、胴体のほぼ全体、主翼と尾翼のボックスなど、機体フレーム構造の約50%に複合材料が使われている。複合材料を大量に使う事で得られる利点は以下の通り。 ・客室が快適になる。 ・疲労、腐食に対する耐久性が向上する。 ・重量の軽減により燃料消費が低減する。 ・組立工程時間が削減される。 最初の「客室が快適になる」は何故か。巡航飛行中の客室内気圧を高くできる事と、客室内の湿度をあげる事ができる事が理由である。これまでの旅客機は、内部を8000ft(2438m)の気圧にしている。金属製の胴体ではこれが限界らしい。複合材料の強度が大きいので、より高い気圧にでき、「787」では6000ftの気圧にしている。 湿度を上げられるのは、複合材料が腐食に強いからである。通常の旅客機では6~8%(0%の事も)の湿度であるが、「787」では12~15%の湿度である。私は喉が弱いため、飛行機に乗って外国に行くと、喉を傷めて風邪をひく事もあった。15%でもまだ低いので、マスクをした方が良いかも知れない。 「787」のエンジンは、GE製とロールスロイス製とから選べる。ロールスロイス製のエンジンは、トレント1000。3軸構成である。私が学生の頃に就航したロッキード トライスターのRB211も3軸であった。その技術を改良して、今も3軸エンジンが使われている。GE製は2軸である。2軸と3軸には、それぞれ長所短所があるが、どちらかに淘汰される事なく、それぞれの方式を生産し続けているのは、ちょっと不思議な思いである。
第5章 都市社会の成立
家康によって勧請された江戸の産土社(うぶすなしゃ)である山王社の祭礼は、江戸城の内に入って将軍上覧を得る「天下泰平、御武運長久」の祭として、「天下祭」と呼ばれた。この祭礼は、1635年以来、隔年の6月15日に行なわれ、1643年6月、家光は初めて家綱(1641年8月誕生)と共に上覧した。祭礼に先立つ5月、家光は祭具新調のため銀1000枚を山王社に下賜している。しかし、当時は寛永飢饉の最中であり、日本橋には飢民があふれていた。その日、祭礼を見物した林羅山は、「山王祭ヲ見ル」という詩文の中で、祭は政治のあり方の基本であるとして、家光に対する厳しい批判を行なっている。林羅山は、家康から家綱まで四代の将軍に仕えた。 1590年、家康が関東入国した時の江戸は、かつて太田道灌が築城し、後北条時代(鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏の後裔ではないことから、後を付けて区別される)には小田原の支城として城館があったが、土塁だけの、板葺・茅葺の粗末なものであった。江戸城の本格的な工事は、家康が将軍となった1603年から始まる。工事は以下の3つの時期に分けられる。 第一期:1603年~1614年(大坂の陣が始まる)。家康に依る。 第二期:1620年~1624年、1629年。秀忠に依る。 第三期:1636年。家光による外郭工事。 第一期では、神田山を切り崩して日比谷入江を埋め立てるという大規模な自然改造を行なっている。家康は、起伏のある丘陵地帯を削平し幾つもの谷を埋めて造成した大坂城三の丸工事を見ており、秀吉の都市造りの影響を受けていると思われる。 第二期は、小規模に留まった。この時期、大坂城の普請が大々的に行なわれた。1619年に大坂城を幕府直轄としており、豊臣期を超える大規模な城郭として再生し、西国外様大名に対する押さえとした。 第三期では、町人や一般家臣団も石垣と枡形門で囲う「惣構え」が完成。 しかし、島原の乱と寛永飢饉により、「際限なき普請役」は破綻する。 1657年に江戸に大火が発生し、江戸城本丸を含む大名屋敷、町屋が焼き尽くされ、死者は3万7000人を超えた。大火後、天守は再建されず21大名が動員されただけで、大規模な公儀普請は行なわれていない。かなりの大名屋敷が郭外へ移転させられた。その跡地は、江戸城を守るべき防火帯として残された。「惣構え」に守られた都市という建前も放棄された。元禄期には町方人口が50万人を超え、武家人口も合わせて百万都市になる。当時のロンドン、パリの人口が50万人であり、江戸は世界一の巨大都市であった。 1601年、伊達正宗は家康に、諸大名の妻子を全て江戸に集め、箱根・足柄に番を付ければ「広き籠」と同じになり、「天下末代の御為」になると進言。家康から江戸桜田に屋敷地を拝領し、1602~1603年に率先して江戸屋敷に移った。1634年8月に、譜代大名も妻子移住が制度化された。 全国的には自由通行を原則としたが、箱根など江戸の周囲にだけは、関所が置かれていた。1631年からは女と手負いの者は関所や舟場を手形なくして通してはならないとされた。 「京の着だほれ、大坂の喰いだほれ、江戸の呑だほれ」、「京の八百八寺、大坂八百八橋、大江戸八百八町」などと言われる。江戸時代の首都は「三都」と言われる。1636年に江戸と近江坂本で寛永通宝の鋳造が始まった。 1620年頃に出された板倉21ヶ条(京都所司代第2代の板倉周防守重宗の名において布告された)により印判が奨励され、17世紀の半ばを過ぎると基本的に全て印判になる。欧米型のサイン(花押)社会から今日のはんこ社会に変わった起点は、ここにある。
2011年11月29日、東日本大震災による自宅損傷の修復を終えた。と言っても、修復費用10万円余りの軽微な損傷であったが。11月29日9時から4名の工事関係の人が来て下さり、15時過ぎまでに、修復を完了して頂いた。
2011年3月11日、東日本大震災の日の夕方、17時頃に帰宅した。帰路の信号機の半数程度は消えていた。家に着いて玄関の外灯が点いているのを見て、ホッとした。しかし、玄関の扉を開けると、悲惨な状況が飛び込んできた。更に進んで、リビングとダイニングに入ったが、食器、書籍などが飛び出して部屋中に散らばり、液晶テレビも倒れていた。足の踏み場がなく、ガラスの破片もあって不用意に裸足で入るのは危険な状態だった。何をどうしたらよいか、茫然自失。家内の両親は怪我もなく無事だった。 義父と共に、リビングに座る場所を確保するために、少しずつ片付けを開始した。家内と娘は、埼玉県越谷市に出かけていたが、無事に夜遅く帰って来た。弘前大学に進んでいた次男は、春休みを筑波で過ごすために、3月11日の昼に車で筑波に向けて出発していた。途中で大地震に遭い、高速道路が使えなくなり、一般道に降りて、通行止めを避けながら、深夜に筑波に帰って来た。彼の車にはカーナビが無く、かなり苦労したようだ。大震災後の片付けに、次男の力は大きな助けになった。感謝している。家族全員、無事だったのは、何よりであった。 この付近の震度は、6弱であった。この家は、今まで震度5までは問題なく耐えていた。震度6弱により、階段の両側の内壁の接合部が破損していた。家具が倒れた部屋では、家具が倒れる時に内壁に穴を開けていた。暫くしてへーベルハウスから被害の調査に来られ、修復工事の予定・見積もりを聞いた。我が家は、軽微な被害だったので、修復工事は最後にして貰った。今後、震度6以上の余震が来ない事を願っている。
第4章 村落社会と知
飢饉がほぼ一段落した1644年3月、幕府勘定頭は各代官に幕領農村の調査を命じた。調査項目は、旱魃・水害などの飢饉の被害状況、百姓夫役の種類と実態、一軒毎の石高・家族構成・家屋の状況などであった。「家数人数万改帳」と言われる。年貢も夫役も対象とならない無高の水呑百姓や、老人・赤ん坊・下人・下女の一人一人に至るまで家族構成を書き上げさせる「人数帳」であった。飢饉の実態究明・対策立案を目的として行なわれた。このような住民全てを対象とする人数帳は古代の戸籍編成以来の事。 当時の農家の間取りは、食事場、寝間、居間、客間の4つの部屋が田の字型に配置されたものだった。四つ間取りと言われる。これに、土間が付いていて、その一部に竈(かまど)が設けられている。 ----------- 私の記憶 --------------- 私の母の生家は、広島県 福山市 沼隈町 常石(つねいし)にあった。小学校低学年の頃までは、夏休みに家族で出かけた。今行くなら車で、尾道・松永を経由して行くが、当時は我が家にも車はなく、尾道港から船で行った。小さい頃は、常石は瀬戸内海の島にあると思っていた。常石の港に着くと、歩いて山道を登る。暫く行くと、右側に比較的大きな池が2つほど隣接していたと思う。池を過ぎると、左側に祖父母の農家があった。下図のような間取りだったと思う。正に上記の四つ間取りであった。 ![]() ---------------------------------------- 河内国碓井村に住む夫婦と子供5人の善次郎家の例が記されている。石高は6石1斗。この頃、成人1人当たりの耕作面積は3石余り。この家は夫婦だけで耕作できた。長男が15歳位になって働けるようになると、労働力は3人となり、約10石を耕作できる。年貢率を五公五民とすると5石が家族に残る。この家族は7人であるが小さい子が多いので生活して行けよう。現実には6石余りの土地しか持っていないため、4石ほどは小作地を借りる事になる。小作地は、年貢の他に小作料も出さねばならず、かなり苦しくなる。このぎりぎりの状態で旱魃や水害に遭うと、やりくりが破綻し、借金をするか子供を売る事になる。親子代々が下人の場合、「譜代下人」と呼ばれるが、主家の意向次第で自由に身柄を処分され売買される奴隷的存在であった。 善次郎家は何とか自立している小百姓であるが、無高の水呑や1石以下で小作地を借りないと生活できない小作層、更に家も持たない借家層があった。 ------------ 米の単位 --------- 1石=10斗 1斗=10升 1升=10合 1合=0.18039㍑ 1石=1000合(当時1年間に1人が消費する米の量) 1俵は60kgであり、約4斗に相当。1人の4.8ヶ月分。 1反は1年分(1石)、1坪は1日分(3合)の米を生産する広さ。 1反=300坪 1坪=1間×1間 1間は畳の長辺の長さ。 ---------------------------------------- 太閤検地は、単なる土地調査ではなく、奴婢売買の禁止、平百姓の使役禁止、小作料収取の禁止、直接耕作者を土地所有者として登録する事など、小農民自立政策であった。しかし、現実には、寛永期の農村に、譜代下人を持つ大百姓が存在し、譜代下人の売買や小作料収取が行なわれていた。 兵農分離した村の支配には文書行政が不可欠であった。村の中でそれを担い年貢徴収の実務にあたったのが、庄屋・名主であった。名主は東国での呼称であり、上方・西国では庄屋という。幕領農村に出された飢饉対策法令には、村落事務公開令とでも言うべき条項があった。諸帳簿を整備し、それを小百姓にも公開・確認させる事で、庄屋による小百姓への「非分」や不正を防止しようとするものであった。当時、現実に様々な争論があり、その実態を踏まえて法令が出された。百姓の運動が法律を生み出し、代官や手代たちのあり方を変えさせた。 岡山藩の池田光政は1654年の藩政改革で、「諫箱(いさめばこ)」を設け、家老から末々に至るまで匿名で投書する制度を設けている。目安箱はふつう享保改革で将軍吉宗が設置したものとされているが、既にこの頃から見られる。
第3章 寛永飢饉
1640年6月の蝦夷駒ケ岳の噴火の降灰により、津軽で大凶作。1641年には全国各地で異常気象が発生。島原の乱が終息した1638年の夏頃から九州一帯でおこった牛の疫病による大量死が、1640年には中国地方、近畿地方に広がっていた。1642年2月、大老酒井忠勝は国許の家老たちから驚愕する連絡を受けた。前年末から大雪が降り、村々の百姓達が10人、20人と飢餓に及ぶほど切迫した状況であると。他の大名たちにも国許から飢饉の情報が上がって来る。 1642年5月、家光は次々と対策を打ち出し(倹約、煙草の作付禁止、身売りの禁止、酒造統制、雑穀を用いるうどん・切麦・そうめん・饅頭・南蛮菓子・そばきりの製造販売禁止、御救小屋の設置など)、諸大名には交替で帰国して飢餓対策に当たるよう指示が出された。幕府も藩も、それまでの軍事を中心においた体制から、撫民仕置つまり民政を基本に組み込んだ政治の仕組みへと大きく転換していく。(今回の東日本大震災と原発事故を契機に、より良い社会の実現に向かう事を祈る) この頃、関東方の年貢の半分余が収納されていた浅草蔵で大規模な不正事件が発覚。浅草蔵奉行不正事件である。死罪65人におよぶ大疑獄事件であった。不正により浅草蔵には米は無い事が判明。軍事用の兵糧米として備蓄された筈の米が無く、救米として蔵米を安く放出するための米のない事が、将軍家光を激怒させた。 大坂で大坂城内の蔵米の放出が行なわれた事が、長崎オランダ商館長ヤン・ファン・エルセラックの日記に記されている。土木事業を行なう事で扶持米が支給された。京都でも洛中貧民救済の公共事業が行なわれた。 ----マウンダー極小期(ウィキペディア)より---- マウンダー極小期(Maunder Minimum)とはおおよそ1645年から1715年の太陽黒点数が著しく減少した期間の名称で、太陽天文学の研究者で黒点現象の消失について過去の記録を研究したエドワード・マウンダーの名前に因む。 この時期のヨーロッパ、北米大陸、その他の温帯地域において冬は著しい酷寒に震え、暦の上では夏至であっても夏らしさが訪れない年が続いた。以下のグラフは、過去400年間の黒点数の変化を示す。 ![]() 17世紀から18世紀の小氷期の頃、冬になるとテムズ川は頻繁に凍結した。1607年には最初のフロスト・フェアーがあり、凍りついた川の上にテントが並べられ、ボウリングやアイススケートなど様々な娯楽が提供された。冬の平均気温が上昇し、1814年からは二度と川が氷結することはなくなった。
JAXA の研究開発本部では、職員の研究開発能力向上のために、色々な専門分野毎に研修を行なっている。私は、軌道力学の研修の一つとして、『軌道設計の応用(いろいろな衛星ミッションと摂動の利用と制御)』というタイトルの講義を2008年~2010年の3年間、社内で行なった。3年間と言っても、1回2時間の講義を3回行なっただけである。これは、私が 旧NASDA に入社して30数年間に行なった軌道の解析検討の内、比較的まとまりのあるものの概要を述べたものである。前座として軌道力学の基礎知識を幾つか記し、最後に軌道力学の豆知識のようなものを入れた。全体で64頁の資料である。
本日から、これをJAXA リポジトリ・サイトから自由にダウンロードできるようになった。検索語を入力するウインドウに、例えば以下の単語を入れて下さい。 歌島 軌道設計の応用 そして検索ボタンを押すと、『軌道設計の応用(いろいろな衛星ミッションと摂動の利用と制御)』が出て来ます。
今年(2011年)の7月から、我が家の電球の 「LED 化」 を進めてきた。それ以前から、電球型蛍光管に交換できるものは交換してきており、省エネルギー化の次のステップである。電球型蛍光管の省エネルギー性能はかなり高いので、寿命が来るまでは使い続け、切れたら LED 電球に交換する予定。
我が家でまだ白熱電球が使われているのは、廊下とリビングの天井の補助光源である。その中で、リビングの天井の補助光源は、調光機能があり、それに対応した LED 電球はまだ高価なので、交換は暫く見送る。なお、この補助光源は殆ど使っていない。 従って、調光機能のない30W程度の白熱電球(E17口金の横置きミニクリプトンタイプ)を全て(8ヶ所) LED 電球に置き換えるのが、今年7月からの課題であった。近所の家電量販店にて1500円~1800円で販売されている以下の2製品が、私の要求に合致した。 (1)東芝製 LED電球 (LDA4L-E17、4.3W、250ルーメン、4万時間) (2)オーム電機製 LED電球(LDA4N-H-E17 8、3.5W、300ルーメン、3.5万時間) なお、1500円よりも安いものは、光量が足りなかったり、チラツキが有ったりしたので採用せず、2000円以上の製品は高過ぎると考えて対象外とした。 8月から少しずつ交換して行き、現時点で1個を残すのみとなった。
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